第一章:標高5000メートルのアンドロメダ

 サンティアゴから国内線に乗り継ぎ、カラマの小さな空港に降り立つ。そこからさらに乗り合いバスに揺られること数時間。車窓の風景は次第に緑を失い、乾いた赤茶色の大地へと変わっていった。


 アタカマ砂漠。


 ここは地球上で最も乾燥した場所の一つだ。年間降水量はわずか0.1ミリメートル。場所によっては過去400年間一滴の雨も降っていない。そのため大気中の水蒸気が極めて少なく、天体観測には理想的な環境となっている。


 NASAが火星探査ローバーのテストを行うのもこの砂漠だ。地表の様子が火星と酷似しているからである。SF映画で見る火星の風景そのものだった。生物の気配が全くない荒涼とした大地。だが不思議と恐怖はなかった。むしろそのすべてを拒絶するような風景が、今の私の心には心地よかった。


 私が予約していたのは、砂漠の中のオアシスの町サン・ペドロ・デ・アタカマからさらに車で一時間ほど登った場所にある小さなロッジだった。ロッジのオーナーであるカルロスという日焼けした人の良さそうな老人が私を迎えてくれた。


「ようこそセニョリータ。星を探しに来たのかね?」


 彼の言葉に私はただ静かに頷いた。


 標高はすでに三千メートルを超えている。空気が薄い。少し動くだけで息が切れた。これは高山病の初期症状だった。海抜ゼロメートルに住む人間の体は、高地の低酸素環境に適応するのに時間がかかる。赤血球の増産、心拍数の増加、呼吸の促進。体のあらゆる機能が酸素不足と戦っている。


 その夜。私はカルロスに勧められるまま、ロッジのテラスで夜空を見上げた。そして息を呑んだ。それは私がプラネタリウムで何千回と再現してきたどの星空とも全く違っていた。


 星が降ってくる。


 そんな陳腐な表現しか思いつかない。無数の星々がダイヤモンドの粒子のように空に溢れ、その一つひとつが生命を持った光として激しく明滅している。


 そして天の川。それはもはや川などではなかった。白く輝く巨大な光の帯が天空を二つに引き裂くように横たわっている。


 私は今、銀河系内側を見ているのだ。私たちの太陽系は天の川銀河の渦状腕の端近くに位置している。夜空に見える天の川は、銀河系の中心部に向かって渦状に集まった何千億もの星々の集合体だ。一つ一つは私たちの太陽と同じような恒星で、その多くに惑星系を持っているかもしれない。


 あまりの美しさと荘厳さに、私は自分の存在が宇宙の中に溶けていくような感覚に襲われた。


 これはおそらく哲学者カントが「崇高」と呼んだ感情。

 人間の理解を超えた圧倒的な美に触れた時に生まれる、畏怖と陶酔が混じり合った複雑な感情。


 気づけば私の頬を涙が伝っていた。それは悲しみの涙ではなかった。


 そんな私に背後からぶっきらぼうな日本語がかけられた。


「観光客はここまでだ。これ以上奥は立ち入り禁止になっている。下山してくれ」


 振り返ると、そこに一人の男が立っていた。私と同じ日本人。歳は三十代半ばくらいだろうか。黒いダウンジャケットに身を包み、その瞳はこの砂漠の夜のようにどこまでも冷たく、そして深かった。凍えるような孤独の空気をその全身から放っていた。


 彼が天見あまみすばるだった。


 カルロスの話によれば、彼は日本の国立天文台から派遣されてきた天体物理学者で、このさらに上、標高5000メートルにあるALMA望遠鏡群の一角を借りて、たった一人で何か途方もない観測を続けているのだという。


「少し気難しい男だがね、根は悪いやつじゃないんじゃよ」


 カルロスはそう言って笑った。


 翌日、私は高地順応も兼ねて昼間の砂漠を散策していた。標高3000メートルを超える高地では、体を徐々に慣らしていく必要がある。急激な運動は高山病を悪化させる恐れがあった。


 そこで再び昴と出会った。彼は巨大なパラボラアンテナが何十台も立ち並ぶ天文台の敷地で、何か専門的な機材の調整をしていた。私の存在に気づくと、彼はあからさまに迷惑そうな顔をした。


「まだいたのか。言ったはずだ。ここは遊び場じゃない」


「わかっています。でも少しだけ教えていただけませんか? あなたはここで何を探しているんですか?」


 私のその純粋な問いに、彼は少し戸惑ったようだった。

 そして観念したようにぽつりと語り始めた。


を探している」


「ファーストライト?」


「そうだ。だ。百三十七億年前にビッグバンが起きたその直後に、この宇宙で初めて灯った星々の光。その痕跡を俺は探している」


 そのスケールの壮大さに私は眩暈がしそうだった。私が悩んでいた失恋なんて、この宇宙の歴史に比べれば瞬きにも満たない刹那の出来事。


 宇宙の年齢は約137億年。ビッグバン理論によれば、宇宙は無から始まり、極小の特異点から急激に膨張を始めた。最初の恒星が誕生したのは宇宙誕生から約1億年後。それが「第一世代の星」、ファーストスターと呼ばれるものたちだ。


「あんたはプラネタリウムの人間だったな」


 彼はカルロスから私のことを聞いていたらしい。


「君たちが見せているのはただの美しい星空だ。だが俺たちが見ているのは、もっと混沌とした宇宙の真実の姿だ。星の誕生と死。銀河の衝突。そしてその全てを飲み込むブラックホールの闇」


 彼は私を「感傷的なお星様少女だ」と見下しているのがわかった。悔しかった。私は言い返した。


「ええ、そうかもしれません。でも私たちにはあなたたち科学者には見えないものが見えています」


「何?」


。古代の人々がこの混沌とした星空の中に見つけ出した神話や星座の物語。それは科学では決して解き明かせない、人間の魂の記録です」


 私のその言葉に昴の冷たい瞳がほんの少しだけ揺らいだように見えた。


 その夜、彼は私を彼の研究室に招き入れた。そこには巨大なモニターが何台も並び、そこに電波望遠鏡が捉えた宇宙の不可思議なデータが映し出されていた。


「これが俺が見ている宇宙だ」


 彼は言った。


「君が見ているような美しい可視光線じゃない。宇宙が生まれた時のビッグバンの残響。星が死んだ最後の断末魔。宇宙の声なき声だ」


 宇宙マイクロ波背景放射。


 ビッグバンの残光とも呼ばれるこの現象は、宇宙誕生から約38万年後に放出された光が、宇宙の膨張によって引き延ばされ、現在では電波として観測される。それは宇宙の化石のようなものだった。


 私はそのデータの中に一つの美しい渦巻き銀河の電波画像を見つけた。


「これはアンドロメダ銀河?」


「そうだ。我々の天の川銀河の隣人だ」


「綺麗ですね。まるで踊っているみたい」


「踊ってなどいない」


 彼は冷ややかに言った。


「アンドロメダは時速四十万キロで我々の銀河に向かって突進してきている。数十億年後、二つの銀河は衝突し一つの巨大な銀河になる。その時太陽系がどうなるか誰にもわからない。これが科学的な真実だ」


 私たちは全く違う世界を見ていた。

 だが同じ星空の下にいた。

 そのどうしようもない事実だけが、二人の孤独な魂を静かに繋ぎ止めていた。

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