感情の値段
寛原あかり
感情の値段
第1章 夜の声
夜勤明け、耳の奥がまだざわついている。
「金返せよ」「お前の名前なんて覚えてやらないけどな」
怒鳴り声も、ため息も、諦めの笑いも──全部、僕の中に溜まっていく。
もう何年も、そんな音を飲み込んで生きてきた。
ボロアパートのポストを開けると、光熱費の督促状と妹からの留守電通知。
「お兄ちゃん、また電話出なかったね。無理してない? 何かあったら言ってよ」
その声は少し心配げで、でも優しかった。
駅前の電光掲示板が目に入った。
《あなたの感情、高値で買い取ります》
ふざけた広告だと思った。でも、笑えなかった。
──売れるなら、売ってしまいたい。
⸻
第2章 怒りの値段
督促の紙は増えていく。財布の中は千円札が一枚だけ。
夜勤の空白の時間、僕は気がつくとあの広告を検索していた。
店舗は街外れの古いビルの一室にあった。
蛍光灯の下、女が静かに笑っている。
動きだけが笑顔で、そこには何の温度もなかった。
「初めてのご利用ですか?」
壁一面に並ぶ瓶。それぞれに色が揺れている。
「どんな感情でも、買い取ります」
女は無機質に言った。
僕は迷わず「苛立ち」を売ることにした。
特殊な器具が頭に装着され、光が瞬き、何かが抜けていく感覚がした。
瓶の中に濃い赤色の液体が満ちる。
終わった瞬間、胸がすっと軽くなった。
だが同時に、何か大切なものが削られたような気もした。
⸻
第3章 恐怖を捨てる
数週間後、家賃が払えなくなった。
怒りを売った金はもう残っていない。
再び店を訪れると、女は同じ笑顔で迎えた。
「次は何を?」
「……恐怖」
器具が頭に触れると、冷たい風が脳を抜けるようだった。
瓶には青黒い液体が溜まっていく。
帰り道、不審者が肩をぶつけてきたが、僕は無表情で歩き去った。
夜道で車が急接近しても、足は動かなかった。
妹から電話があった。
「最近、声が冷たいね。何かあった?」
「別に」
心は波立たず、ただ言葉だけが口から落ちた。
⸻
第4章 愛情を手放す
その月、会社のシフトが減り、収入はさらに減った。
僕は最後の高値を狙い、「愛情」を売ることにした。
瓶の中に金色の液体が溜まっていくのを見ながら、妹の顔が頭から遠ざかっていく。
思い出も色を失い、ただの映像のように平坦になった。
アパートの中は静かだった。
孤独感だけが増し、鏡を見ると、目から光が消えていた。
⸻
第5章 身体の値段
感情はすべて売り払った。
街は灰色で、音も匂いも遠い。
ある日、街角の掲示板に新しい広告が現れた。
《あなたの身体を買い取ります》
僕は郵便局へ行き、残った金と引き換えに現金書留を妹へ送った。
最後に何かを書こうとしたが、言葉が浮かばなかった。
契約の場所へ向かう道、ガラスに映った自分の顔は、あの店員の笑顔と同じだった。
動きだけが笑顔で、そこには何の温度もなかった。
感情の値段 寛原あかり @kanbara_akari
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