山陰道の夫婦

 深夜の京を抜ける道はしんと静まり、遠くの犬の吠える声と、風に揺れる竹林のざわめきだけが耳に残る。

 左馬は、不安げな蛍に声をかける。


「月の無い夜は、星が煌めきますな。どう詠もうか思案しているのです」


 その言葉に、蛍の心は少し和らいだ。

 やがて京の灯は遠ざかり、街路の石畳も土の道に変わる。闇に沈む山あいの小道を進み、谷川を越えるたびに霧が立ちこめ、白布をかけたように二人を包んだ。蛍は裾をからげて足を進め、左馬はその背を守るように後を歩いた。


          ◆


 六条河原から西へ二十五里、老ノ坂に差し掛かった。闇夜の中、背後から音もなく近寄る影があった。振り向く間もなく、行者姿の男が二人の前に回りこんだ。


 頭巾から覗く白眼が、鋭く二人を睨みつける。


「貴様らは何者だ。聞いておらぬ。河原者にしては小綺麗すぎる」


 その言葉と、男から発せられる尋常ならざる気迫に、蛍は青ざめて震え、思わず左馬の服に縋った。心臓がうるさいほどに鳴り響き、冷たい夜風が耳元で嘯く。このままこの男に殺される、そんな予感が背筋を走った。


 左馬は、瞳を斜めに動かした後、男を見据えてふっとニヤリと笑った。


「こいつに惚れて惚れてな。京では顔すらまともに見せてくれんかったが、ようやっとこっちを向いてくれた。鬼の里なら、身分も関係なく、めおとになれると噂に聞いてな」


 行者の男は、何も言わずに二人を睨んだままだった。沈黙が、重くのしかかる。恐怖に喉が張り付いたまま、蛍は上目遣いに男を見つめ、震える声で精一杯の嘘を吐いた。


「わたくし……わたしも、左馬と、めおとになりたい」

「まあよかろう」


 男の白眼が、わずかに揺らいだように見えた。


「だが、検非違使けびいしの探りとわかったら…」


 男は錫杖をじゃらりと鳴らした。その音は、まるで髑髏がぶつかるような、ぞっとする響きを伴っていた。


          ◆


 二人が再び歩き出すと、男はその場に佇み、距離をとり、また追いはじめた。追跡者がいないかを確認する、殿しんがりの役目を担っているようだった。


「生きた心地がしませんでした…」


 蛍が震える声で呟く。左馬は安堵からか、小さく息を吐いた後、いつものおどけた調子で言った。


「姫、いや蛍どのに、めおとになりたいと申してもらえて、私は夢心地でしたね」


 蛍は顔を赤らめて少し笑い、怒ったふりをして左馬の肩を軽く叩いた。


「ばか」


 夜が明けていく。朝露に濡れた草木が、遠くの山の輪郭を静かに浮かび上がらせる。


「……あちらですな」


 左馬が指さす方向には、山間の道を進む小さな人影の列があった。


「行きましょう、蛍。私たちの『真実』を、この目で確かめに」


 二人は、再び歩き出した。


     ◆


 一行は山陰道を少し外れ、山の中へと入った。追跡者の気配はないと判断したのだろう、男たちの顔から警戒の色が薄れ、重い足取りが少し軽くなる。


 しばらく歩くと、玉雲寺という寺があり、その向こうに琴滝という滝があった。一行は滝の近くまで来ると、各自が腰を下ろし、一息ついた。蛍は、滝の脇の石に腰をかけ、流れる水音に耳を澄ませる。


 弥太やたと呼ばれた男が、滝壺で水を汲んで戻ってくると、冷たい水で火照った顔や手足を洗い、その心地よさに思わず息を吐いた。彼の妻である阿古あこもまた、滝の飛沫を浴びて、うっすらと笑みを浮かべていた。


 やがて弥太は、懐から取り出した横笛で、短くも軽やかな一節を奏でた。笛の音は、滝の音と重なり、あたりに静かに響き渡る。


「あっしは京では笛吹きをしておりました、弥太と申します。つれあいは、河原女かわらめの阿古でございます」


 阿古は、少しばかり緊張した面持ちで、ぺこりと頭を下げた。


「どうですか、みなさん。互いの身の上を明かして、これから先の逃げの道行を、語り合ってはいかがでしょう?」


 そう言って、弥太は、先ほどまで笛を吹いていた、キョロリとした大きな目で、一行を順に見つめた。右馬佐は、その言葉を面白そうに聞いている。



「あっしからいきましょう。連れ合いとは子供の頃から知っておりましてね、都の祭礼でお囃子はやしをするために、笛やら太鼓やらの修行でした。祭礼がなければ河原で見世物をしていたんで、こいつは年頃になってからは客をとるのが生業なりわいでね……できた子は、すべて鴨川に流しておりました」


 弥太の口からこぼれる言葉には感情がなかった。まるで語り部が見せ物の物語を語るかのように、淡々と……


 蛍は目を見開いた。隣の左馬もまた、驚きを隠せないでいた。阿古という女性は、自分よりもはるかに年若く見える。しかし、その顔に刻まれた疲れは、自分など想像もできない苦労を物語っていた。


 「そんな世界が…」


 喉まで出かかった言葉を、蛍は飲み込んだ。自分たちが毎日目にしていた、華やかな京の都の裏側で、こんなにも残酷な生業が成り立っているというのか。自分たちの生活を支えていた汚れた仕事。そして、その汚れた仕事につかなければ生きていけない人々。自分の無知が、この場の澄んだ空気の中で、あまりにも恥ずかしく思えた。


 弥太は、そんな蛍の様子には気づかず、言葉を続ける。


「……体を壊しながら客をとる阿古が、不憫で不憫で。めおとになれるならと、すがるおもいでな」


 そう言って、弥太は阿古の冷えた手に、そっと自分の手を重ねた。



 次に口を開いたのは、職人風のやせぎすの男だった。


「わいは皮作部の与一よいちと申すもの。わいと、かみさんの小梅こうめは、生まれてこのかたずっと、牛馬の革を剥いで、鞣して生きてきた。おとうも爺さんも、そのまた爺さんも、この仕事に誇りを持って生きてきた」

「そう、腐りかけた肉と血の匂いにまみれ、革から脂をこそげ落とし、冷たい川に手を晒し、それでも、魂を込めて鞣した革に美しい艶がのる時、わいらは満たされていた。叩けば天に届くような、良い音を出す太鼓の皮をつくることにも、心血を注いできた。この手で、貴族様の使う鞍も、寺社の太鼓も作ってきたんだ」


 そこで、与一は言葉を切った。その声に、張り詰めた誇りと、抑えきれない怒りが混じっていた。


「……でもな、わいらはけがれてるのだそうな。寺社にすら近寄ってはいかんそうな。わいも、わいに子ができても、死んでもずっと穢れているのだそうな。ふと、虚しくなってしもうてな。こんな理不尽に耐えきれんかった。もし他に道があるならと、賭けることにしたのだ」


 与一の隣で、小梅は何も言わずに、ただ静かに夫を見つめていた。その表情には、夫の苦悩を全て理解している、深い悲しみが浮かんでいた。



 最後に口を開いたのは、まだ少年にしか見えない男だった。少年は隣にいる女性としっかり手を繋いでいる。


「おいらは、弔い屋の小四郎こしろう。一緒に来たのは哭女なきめの姉さん。血は繋がってねえよ」


 隣の女性に目をおくる。その声は、年齢にそぐわぬほど枯れていた。


「おととしの流行病はやりやまいのときにな、検非違使に言われて、姉さんとことウチんとこで、家族総出で、都で行き倒れた遺体を集めては火葬にしたんだ。火は一日中燃えてて人の焦げた匂いが今でも染み付いてる。焼いても焼いても、次から次へと人が死んでいく。そのうち、おいらの爺ちゃんも父ちゃんも母ちゃんも兄さんも、姉さんとこのオバさんもオジちゃんも、みんな、屍体から感染った流行病で死んじまった」


 そう語る小四郎の瞳には、燃え盛る火の色が宿っているように見えた。


「二つの家で、おいらたちは二人きりになった。家族全員を火葬にして、もう屍体は絶対に触らないって決めて、おいらのスリと、姉ちゃんが客をとることで、二人で生きてきたんだ」


 蛍は、こみ上げてくるものを抑えきれず、涙が止まらなかった。彼が、自分が虫をとってもらっていたあの男の子たちと同い年に見えたからだけではない。

 流行病のことは覚えている。絶対に家を出てはいけない。それだけのことで蛍は父親に駄々をこねていた。

 そんな時、この子たちは地獄を見ていたのだという、耐え難い事実に打ちひしがれていたのだ。


「小四郎くん、いくつなの?」


 蛍が震える声で尋ねる。


「……おいらは、十二だよ。姉さんは十四」



 静寂が訪れる。次に語るのは、左馬の番だった。


「どうにも、僕は浮わっついてて、話しにくいんだが…」


 そう言って、左馬は、どこか遠い目をして話し始めた。


「僕は京の馬寮で、馬を育てていた。馬はな、正直なんだ。毎日餌をやり、厩舎を掃除して、寝藁を替えてやれば強くなっていく。そうやって育てた馬が、祭りで都大路を駆ける姿は、それはもう、天に昇る龍のようだった」


 その言葉は、馬をこよなく愛する男の真実を語っているようだった。


「祭りのとき、貴族の屋敷で女房をしていた蛍を見かけて好きになってな。身分違いで、一度は諦めるしかなかった。だが、どうしても諦めきれなかった。蛍も、めおとになりたいと、僕と同じ気持ちだと言ってくれた。だから、僕らはすべてを捨ててきたのだ」


 嘘をついているはずなのに、左馬の声は震えていた。その言葉は、まるで彼の心の内から、真実だけが絞り出されているかのようだった。その言葉を聞きながら、蛍は、ただ静かに、彼の隣に寄り添っていた。



 すべての者が語り終え、静寂が訪れた。ただ琴滝の清らかな水音だけが、絶え間なく響いている。

 その中で、行者の一人が静かに口を開いた。殿しんがりを務めていた、より大きな体格の行者だ。


「ワシは虎熊と呼ばれとる。山では修行をしている者だ」


 その声は、岩をも砕くような力強さを持ちながらも、不思議なほど優しかった。


「ひとそれぞれ、山に来る理由はあろう。だが、わしらの山は来る者は拒まぬ。もし、ぬしらが都では叶わなかった幸せを紡げるならば、それでいい。それで、全てだ」


 もう一人の、より小柄な行者が、穏やかな声で続けた。


「ジブンは、星熊だ。もし君らの中で、修験道の修行をしたいもんがおったら言うてくれ。鍛えぬいてやろう。山を守る者も必要なのだから」


 小四郎は、その言葉に、はっと顔を上げた。与一と小梅は互いの手を取り合い、弥太と阿古は静かに涙を流していた。


 彼らはもう、逃げる旅人ではない。自分たちの居場所を見つけ、新たな人生を始める者たちなのだと、蛍は静かに悟った。



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