大江山の秘密

 丹波からさらに北へ、一行は幾つもの峠を越えた。道は山の稜線に沿い、杉林に覆われた谷を抜けるたび、岩肌を伝う清水が白糸のように落ちる。

 慣れぬ旅の疲れに肩を落とす蛍だったが、小川を渡る石橋で左馬が手を差し伸べてくれるたびに、微かに笑みを浮かべた。左馬は道中、農家に立ち寄り、米を購い荷物に加えた。ずっしりと重い米袋が、背負う荷物に加わった。


 山陰道を北へたどり、由良川の流れが広がる福知山盆地に一行が差しかかったのは、日が傾き始めた頃だった。京から続いた街道は、ここで川沿いにゆるやかに曲がり、さらに北国へ伸びてゆく。しかし、星熊行者は、川霧の向こうに影を落とす脇道を示した。


 一行は、馬の轍もまばらな小径へと足を踏み入れた。道はやがて人里を離れ、田畑を抜け、篠竹の茂る丘をかすめる。あたりには人の声も絶え、ただ虫の残り音と、川を渡る風が草を鳴らしていた。蛍は歩きながら、背後から押し寄せる夕闇に何度も振り返った。


「……どこに行くのでしょうか」

「星熊殿にお任せしましょう。行者が進む先は、きっと神に通じる道筋に違いありませぬ」


 左馬はそう言って蛍を促す。その声には、不思議なほど確信が宿っていた。


 やがて小径は杉林へと吸い込まれ、鳥居の影が薄闇の中に浮かんだ。苔むす石段の上には、大原の社がひっそりと佇み、風に揺れる榊の葉がかすかな音を立てている。


 その境内にはすでに、見知らぬ旅人の灯がちらほらと揺れていた。蛍は胸を撫で下ろし、左馬とともに社へ一礼して足を踏み入れた。社の片隅では、星熊が、神官と話をしている。左馬は、その会話にすっと割り込んだ。


「こちら、些少ですが、宿代としてお納めください」


 先ほど農家で購った米袋を差し出す左馬に、星熊が驚いたように目を丸くした。


「左馬どの、かたじけない」


 自分が思いもしていなかった、左馬の振る舞い。その思慮深さと、さりげない優しさに、蛍は頼もしさを感じ、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。



 夜が更けるにつれ、境内の喧騒も次第に遠のいた。杉の葉を揺らす風と、遠く由良川を渡る虫の声だけが残る。拝殿の板間の片隅で、蛍と左馬は荷を枕に横になった。他の旅人たちが火の側で身を休める中、二人は身を寄せ合い、一枚の薄布を肩にかけた。


 蛍は小さく身をすくめた。見知らぬ人々に囲まれた緊張と、夜風の冷たさに、無意識に左馬の肩に寄る。左馬もそっと体を傾け、守るようにその腕を添えた。外の杉のざわめきが、まるで山の精霊が二人を包み込むかのように、ゆらりと心に響く。


 火の残り香と、藁の床のわずかな匂い。左馬の腕の中にいるという安堵に包まれ、蛍はようやく心の緊張を解きほぐす。


「左馬……いえ、右馬佐どの。あなたが来てくれて、本当に良かった」


 小声に息を含ませ、肩越しに目を閉じる。その声は、これまで知っていたどの言葉よりも、真実を語っているようだった。


 左馬は微かに微笑み、囁くように答える。


「京にいてはわからなかったことばかりです。わたしは今、本当に、貴女と、めおとになれた気持ちでいます」


 拝殿の片隅に寄せられた二人の影は、他の旅人の気配に溶け込みながらも、ひとつの小さな安寧を形作っていた。夜露が落ちる音が、杉林の向こうからかすかに聞こえ、蛍はその音に耳を澄ませながら、いつしか夢の中へと落ちていった。


 左馬もまた、夜風に揺れる杉の葉を眺めながら、蛍の安らかな寝顔を守るように目を閉じた。


 夜は深く、境内に静かに降りる。板間の温もりと、杉の香気に包まれた二人の旅は、ひとときの平穏のうちに、夢路へと溶けていった。しかし、その夢の向こうには、彼らがまだ知らぬ「鬼」の都が、静かに目覚めを待っていた。


          ◆


 杉林の向こうに淡い青の光が差し込む頃、拝殿の板間に眠る二人はゆっくりと目を覚ました。外にはまだ霧が立ちこめ、夜露を含んだ草葉が静かに揺れている。


 蛍は肩を伸ばし、左馬の方を小さく振り返る。左馬も微かに目を細め、彼女の無事を確かめるように視線を送った。朝の澄んだ空気に杉や藁の香りが混じり、眠気を覚ましながらも心を落ち着かせる。


 境内では他の旅人たちも既に目覚め、焚き火のそばで身支度を始めていた。商人夫婦は荷物をまとめ、農夫夫婦は草鞋を履きなおして、道行の支度を整えている。


 朝食として宮司から野草と塩を加えた温かい粥が出されていた。鍋から湯気を立てる粥を器にとって、皆が腹を満たす。その横には、筍の皮に包まれた握り飯がいくつか、旅の途中の糧食として用意されていた。左馬が購った米が活用されたのだと気づき、蛍は彼にそっと視線を送った。左馬はそれに気づき、静かに頷き、かすかに笑みを浮かべた。


 行者の二人は既に身支度を整え、何事か祈りを唱えていた。


 蛍と左馬は境内の手水で顔を洗い、口を濯ぎ、竹筒に水を充し、食事を摂る。他の同行者も同様に出立の準備を終え、一行は静かに拝殿を後にした。


 一行は鳥居を抜け、来た細道を逆に戻り、山陰道へと戻った。四十里ほど北上し牧川を越え、山陰道を離れ山道へと入る。道は険しさを増し、足元の石が滑る。蛍は肩で息をしながら、左馬が差し出す手に何度も助けられた。


 先導する星熊行者が道を切り開き、霧に包まれた小径へ足を踏み出した。山道を進むと、大江山の険しい尾根が迫る。谷を隔てる急斜面を慎重に登ると、岩陰に小さな祠や石塔が点在し、昔から人々がこの山を神聖な場所としていたことを物語っていた。夫婦達は息を整えつつ尾根を辿る。その道は都の地図にはない。そしてその先で何が待っているのか、彼らはまだ知らなかった。谷川の清流を越え、木の橋を渡ると、視界に山頂付近の集落が見えてきた。


 こんな険しい場所に、村ができている。蛍と左馬は驚きを隠せなかった。


 集落の中心にある崖沿いには、一際大きな寝殿造の屋敷があった。都の貴族の屋敷とは明らかに異なる、自然の木肌をそのまま生かした柱や梁が組まれており、壁はなく、蔀戸しとみど妻戸つまどで外界と隔てられていた。屋根は、檜の木の皮を用いた檜皮葺である。その佇まいは、まるで山の一部がそのまま建物になったかのようだった。


 その屋敷の入り口で、一行は赤い瞳を持つ男に迎えられた。男は修験道の修行者の服装をしているが、頭巾も数珠も錫杖も持たず、その顔ははちきれんばかりの笑顔を浮かべている。しかし、その頭には、確かに二本の角がたたえられていた。


「おれが、この集落の長をしている、朱天という者だ。赤い天と書く」


 男は人外であるおのれの姿を隠そうともしない。


「よく、この山に来てくれた。嬉しく思う」


          ◆


 屋敷の奥で、山にいる修験道の修行者たちを紹介された。彼らは日ごろ山中を歩き、修行しているので山に詳しいという。京まで迎えに来た星熊行者、虎熊行者に加え、熊行者、金行者という四名。

 さらに、前鬼行者、後鬼行者がいた。二人は古木のような皺で覆われ、その風貌は、一体何年生きているのか想像もつかない。前鬼は背が高く赤い皮膚に二本の角、後鬼は青みがかった皮膚に一本の角をたたえていた。


 自己紹介を終え、左馬が、この旅で最も気になっていたことを尋ねた。


「左馬と申すものです。朱天どの、この山で我々は何をすればよいのですか?」


 朱天は、眉を上げ、はちきれんばかりの笑顔で答えた。


「うむ。この山には、アカガネが埋まっておる。それを掘り出す手伝いをしてほしい」


 職人である与一が、驚きと希望の入り混じった表情で声を上げる。


「アカガネ…銅のことですね」


「そうだ。この山で採れる岩の中に眠るアカガネの精を炭と一緒に燃して取り出すのだ。それを各地の豪族に納めることが、我らの糧となっている」


 続けて、朱天は自信に満ちた声で語る。


「クロガネを作っている連中もいるぞ。だからここで道具を作り、山の木から板を作ることができている」


 朱天は、自分が座っている床板を指差した。


 与一が唸る。


くろがねまでも」


 蛍は、その言葉に息をのんだ。都の貴族たちが使う青銅の鏡や、太鼓の鋲、そして武器の材料となる「アカガネ」や「クロガネ」が、この「鬼」の里で作られているというのか。都が「鬼」と忌む者たちが、その都の文化と力を根底から支えている。その矛盾に、蛍と左馬は言葉を失っていた。


       ◆


 新しくやってきた四組の男女は、集落の外側の一区画に案内された。木を切り倒して抜根し、更地になった一角だ。


 案内をした、金行者がいう。


「まずは自分たちの家を完成させてくれ。最低限のものは用意した」


 それぞれに割り振られた区画に用意されていたのは、沓石に柱が立てられ、梁と根太と屋根の骨格だけが組まれた、骨組みのようなものだった。近くには屋根葺き材や木材が置かれ、竹釘、梯子、木槌が雑然と転がっている。


 左馬は、思わず笑いながら言った。


「なんてこった。私の人生で、木槌を握る日が来るとは」


 蛍は、その家づくりに、初めて見る蟲を見つけた子供のように、目を輝かせた。


「家は自分で作れるのですね」


 周囲にある同じ建物の造りを観察しながら、蛍と左馬は二人で協力し、家を作り始めた。


 まずは屋根だ。左馬が梯子で屋根に登り、蛍が下から屋根板を渡す。慣れない木槌で竹釘を打つ左馬の手に、まめができる。それでも彼は、蛍が渡す板を一枚一枚、丁寧に並べていった。檜皮を重ね、雨漏りがないか二人で確かめる。

 次に床板。四角く区切られた根太に床板を敷き詰め、蛍も木槌を持ち、竹釘で固定する。小さな隙間もできないように、ぴったりと並べていく作業は、まるで二人の心を重ね合わせているかのようだった。

 最後に壁。用意された蔀戸で囲い、入り口に妻戸をつけた。


 数時間かけてできたのは、幅三間、奥行き四間の土間もある、小さな小屋だった。完成したところで、二人で中に入り、藁を敷き詰めた床に横になる。


「できた……」


 作業中に手指に刺さった木の棘を互いに丁寧に毛抜きで抜きあい、針で指先のまめの水を抜いた。

 二人とも京に家はあるが、これほどまでに、達成感と愛着が湧いたことはない。顔を見合わせて、自然と笑みがこぼれた。


「わたしたちの、家」


 蛍が囁く。その言葉は、単なる小屋の名前ではなく、この場所で彼らが築き上げていける、新しい人生の始まりを告げるものだった。敷地にはまだ余裕があり、その気になれば、いくらでも増築できそうだった。


 家の周りの共同の水場と厠を確認する。水場は井戸ではなく、山の複数箇所から湧く湧水をあつめたものだった。上流は飲料水や食事に供し、湧水の下流の溜め池は洗濯などの生活用水に供していた。


 水の流れを、ひがな銅の精錬を行っている炉の脇に配した磁器の筒を通過させることで、湯にしてかけながす、巨大な共同浴場すら用意されていた。鉱山で採掘をした者たちはここで体を清め、明日の労働に備えるのだ。四組の新参者は、共同浴場で、旅と、家づくりの汗を流した。


          ◆


 日が傾き、夜が帳を下ろす頃、四組の夫婦の歓迎を祝う宴が始まった。朱天の屋敷の広間の奥はそのまま洞窟につながっており、そこが広大な地下空間になっていた。

 洞窟全体に響き渡る声で、朱天は言った。


「今日、新しい仲間が来てくれた、本当によく来てくれた、みなで歓迎しよう!」


 何百人もの人々が酒を飲み交わし、談笑する。


 宴が盛り上がると、笛吹き弥太が横笛を吹き始めた。即興で腕に覚えのある琵琶弾きが加わり、その演奏は次第に熱を帯びていく。そこいらにある空の飯桶を太鼓にして、河原者たちが手を打ち鳴らし、皆が笑い、歌い、踊る。


 左馬もほろ酔いでその踊りの輪に加わった。慣れない足取りで跳ねる彼の姿は、京の馬寮を管理する右馬佐の姿とはかけ離れていたが、満面の笑みを浮かべていた。


 その賑わいの中に、蛍にとって見覚えのある姿が目に留まる。心臓が高鳴る。思わず駆け寄る。


「小柴!」


 小柴は赤ん坊を抱き、父親の吉野と共にいた。小柴は驚いたように目を丸くし、かすれた声で呟く。


「姫…さま?」


 蛍は、人差し指を口元にあて、小柴に目配せする。


「ここでは、蛍と名乗っています。そう、下鴨のただすもりで、虫を採っていた蛍です」


 蛍があの時の街娘の服を着ているのに気づき、小柴の目が懐かしさと安堵で和らぐ。赤ん坊は女の子だった。


「よかった、小柴が元気で無事に暮らしていて。ややこも生まれたのですね」

「はい、ここで、家族とともに暮らせております」


 吉野が信じられないといった表情で口を開く。


「藤原家のお嬢様がなぜ、このようなところに」

「家の話は伏せております。鬼が人を連れいく先に、何があるのかを確かめたかったのです。吉野は、ここでどんな仕事を?」

「私は鉱山の坑道での作業を任されていましたが、荘園の下司として農作業指示をしていた経験から、採掘の流れに澱みと無理があるように思われたので、金行者に進言したところ、仕事の割り振りと指示を任されました」


 金行者は鉱山全体の管理をおこなっているようだ。そして進言があれば、知性を以て取り入れて改善していく柔軟性も持っている。


          ◆


 夢のような宴が終わり、ふたりは家に戻ってきた。宴会場から借りた行灯に火を灯し、明かりとする。

 左馬も蛍も、まだ酔いから覚めきっていない。竹筒に入れた湧水をふたつの木椀に注いで飲む。


「蛍さん……鬼の山への疑いは全て晴れましたね……ここは良いところだ」

「はい。弥太さんも、阿古さんも、与一さんも、小梅さんも、小さな小四郎くんも哭女さんも、小柴も吉野も、みんな、みんな眼が輝いていました」


 それぞれの家で、安堵を噛み締めているはずだと思うと、胸に迫るものがあった。

 蛍は涙を溜め、左馬をじっと見つめて言った。


「左馬さん」


 なんだ、と左馬が微笑む。


「わたし、帰りたくない」


 その言葉に、左馬の表情が一瞬で変わった。彼は何も言わず、ただ静かに蛍を抱き寄せた。

 二人初めて抱きしめ合った。都での肩書きも、身分も、何もかもがこの瞬間には意味を持たなかった。彼らには、互いの温もり、そして二人の手で築き上げたこの小さな小屋だけがあった。なにもいらない、そんな気持ちが左馬の心にも溢れてきた。

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