大江山奇譚

大電流磁

蟲めづる姫君

 藤原北家の、中御門の姫君は、引眉もせず、お歯黒も塗らない。

 引眉というのは眉を全て抜いた上で、額に描くという当時の常識的な化粧法だ。

 髪を耳の上にかき上げ、子供たちを使い、虫を捕らえることに熱中する。高貴な立場の成人としてはあり得ない振る舞いだ。


 「いつまでたっても子供のまま…」


 誰もが密かに噂していた。父の従一位・藤原宗輔からは幾度となく叱責されたが、姫君は改めることはない。彼らの考える「美」や「作法」は、自分にとって息苦しいだけの、無意味な飾りだった。


 女房の小柴は、姫君と歳も近く、いつも危ない便宜を図ってくれた。下鴨神社のただすもり、泉川の蛍の話を聞いた時も、いつものように子供らに頼むのかと思いきや、姫君は自分の手で捕まえたいと望んだ。小柴はこっそり街娘の服を手配してくれ、薄絹の袋に光る蛍が、その夜、姫君の寝床を優しく照らした。


 そんな小柴の様子が最近おかしい。ときおり塞ぎ込んでいるため、姫君は尋ねてみた。


「小柴、何かあったの?」

「……吉野様のことです。辛くて」


 小柴は、荘園を管理する身分違いの吉野と、ひそかに逢瀬を重ねているという。


「もし、吉野様と一緒になれないのなら…私、生きてる意味なんてありません」


 その真剣な眼差しに、姫君は身分の壁はどうすることもできないと知りながらも、ある一つの便宜を図った。皆が気味悪がって近寄らない、自分の研究室のような蟲小屋の一室を、二人の逢瀬のために貸すこととしたのだ。


「姫様…!ありがとうございます!」


 小柴は涙をこぼしながら感謝した。


          ◆


 京に不穏な噂が流れた。大江山の鬼が、年頃の男女を連れ去るという。ほかに行き場のあるはずもない若者が、忽然と消えるという話だった。


 夕刻、姫君が蟲小屋でトンボを観察しながら絵を描いていると、小柴が顔を出す。


「姫様、非常に申し上げにくいのですが……」

「小柴、どうしたのですか?」

「私、今夜を最後にここを去らせていただきます」

「まあ、きっと吉野様とのことでしょう?」

「はい。本当は誰にも告げずに去ろうと思っていました……ですが、姫様には、姫様にはどうしても……」

「いいのですよ。小柴が幸せになるなら。行くあてはあるの?」

「はい。京都の北の、大江山に」


 禍々しい噂の地名に、姫君は驚きを隠せない。


「……噂では、そこに鬼が住むと聞いているけれど」

「そこでは、身分なく、働きさえあれば、誰でも暮らして行けるのです」

「それは、本当に確かなの?騙されてはいない?」

「騙されていても構いません。吉野様と添い遂げることができれば」


 そう言って、小柴は自分の腹をそっと撫でた。今は目立たぬが、確かに膨らみがあった。姫君は、小柴の覚悟を知った。そして、彼女が自ら向かうというその山に、決して貴族の人間が足を踏み入れない、何かが存在することを知る。


「小柴、もし困ったことがあれば、いつでも文をください」


 小柴はその夜から姿を見せなくなった。

 皆は鬼の仕業と噂した。


          ◆


 都の様子は、日を追うごとに変わっていった。


 鼻を突く悪臭が、風に乗って屋敷にまで流れ込む。道行く貴人たちは、顔をしかめ、扇で鼻を覆うのが当たり前になった。噂では、六条や鴨川の河原に住んでいた者たちが、若い者から姿を消し、街の汚物を処理する生業の者が少なくなくなったからだという。

 また獣の皮を剥ぎ鞣す生業の者も同じくいなくなり、太鼓を修理できず、馬の鞍の数すら揃わず、宮廷儀礼すら滞るようになった。


 「まったく、どうしてあのような者たちが、一斉にいなくなりおったのか」


 父の宗輔は、屋敷が不潔になったと不満を漏らす。姫君は、そんな父の言葉に内心でため息をついた。不浄と蔑んでいた者たちが、いなくなって初めて、自分たちの生活が彼らの労働に支えられていたと気づく、その傲慢さが、姫君には滑稽に思えた。


 小柴がいなくなって、生活の融通は利かなくなったが、姫君の日常に不便はなかった。屋敷から出る不浄なものを、大工の棟梁から分けてもらったおがくずと混ぜ、風車の力を借りて攪拌する。それにより土に帰すことができるということを、これまでの試しでわかっていたからだ。貴族の姫君にはない「生活の知恵」が、不便を遠ざけていた。


 それでも、心の中にわだかまる疑問は消えない。


 大江山。鬼が住むと噂され、都の若者を攫うという。しかし、本当に鬼がいるというのなら、なぜ小柴は、あれほど穏やかな顔でそこへ向かったのだろう。


 消えたのは、千人にも及ぶ若者たちだという。それほどの人間を、いったいどうやって養っているのか。鬼の棲む山に、若者たちが自らの意思で向かうほどの富があるのか。


 もし、もしそれが嘘だとしたら……小柴はもう、この世にはいないのかもしれない。


 その時、姫君は、自分が蟲小屋で描きためた蟲の絵に目をやった。トンボも甲虫もどの絵も、彼女が見た通りの姿で、嘘偽りなく描かれている。


 ――私は、私自身の目で確かめなければならない。


 姫君は、静かに決意を固めた。


     ◆


 姫君は、いつものように小遣いを与え、虫を捕まえてもらっている子供たちを介し、ひそかに探りを入れた。


「近いうち、都を逃げ出そうとしている者たちはいないかい?」


 子供たちは、姫君が貴人であることを気にしない。姫君の話は面白く、彼らの話も楽しそうに聞いてくれるからだ。そんな子供たちが、数日後、息を切らして戻ってきた。


「姫様、聞いたよ! 六条河原に住む男女が何人か、明日の新月の夜、闇に紛れて都を抜け出すって!」


 京から大江山へは、山陰道を通るのが筋だが、彼らが本当はどこへ向かうかまではわからない。それでも、姫君にとって、それは希望だった。小柴と同じように、自らの意思で都を捨てようとする者がいる。彼らの後ろを追えば、真実が見えてくるかもしれない。


 しかし、一人では怪しまれる上に危険も多い。身分を隠すには、平民の夫婦を装うのが最も自然だろう。そう考えた姫君は、かつて自分を驚かすためだけに精巧な蛇の作り物を作り、毛虫について文を交わした貴族を思い出した。※


 ――右馬佐うまのすけ殿。


 彼は私の毛虫を愛でる奇行を笑うことなく、むしろ面白がってくれた。女装してまで、私の様子を見に来てくれたではないか。常識から外れた自分を、ただ一人理解してくれたその彼ならば、きっとこの誘いにも応じてくれるに違いない。


 姫君は一枚の紙切れに短い文を書き、使いを出した。


「私とともに平民の夫婦を装い、山陰道を旅しませんか」


 使いの者が戻ってきた時、そこには文はなかった。ただ、使いの後ろに、右馬佐が立っていた。手元に抱えているのは、あのときと同じく、ここに来るまでに購ってきたらしい町民の服。


「やあやあ、毛虫の妻と旅に出ると聞いて、文など書いておる暇はなかった。この目で、君が何を見ようとしているのか、確かめずにはいられなくてな」


 姫君は微笑んだ。やはりこの人も、貴族の常識を遥かに超えている。だからこそ、この退屈な世界で、私にたった一人、興味を示してくれたのだ。


 姫君と右馬佐は、町民になりすまし、夜を待った。その間に右馬佐に旅の目的を話す。


「この旅は、京の街で起きている鬼の神隠しの謎を探るものです」

「神隠し?たしかに、河原者が日々いなくなっていることは聞いている」

「わたくしの侍女の小柴という者も、望んで京を去り、鬼の元へ向かいました」


 その言葉に、右馬佐は静かに目を伏せる。


「……なぜ、そんな危険な場所へ?」

「京では叶わぬ恋ゆえに、と」


 右馬佐は目を見開いた。そして、どこか遠い目をして、静かに呟く。


「……それは、私もよくわかります」


 夜の闇がすべてを覆い隠した。屋敷を抜け出す瞬間、心臓が大きく鳴り響く。まるで籠から逃げ出した鳥のように、不安と、しかし抑えきれない高揚感が、姫君の胸を満たした。


 この旅は、決して高貴な姫君が行くようなものではない。しかし、彼女は知っていた。貴族社会のしきたりや、格式の高い屋敷の中には、決して見ることのできない真実が、都の外にあることを。


 姫君と右馬佐は、闇に溶けるように、静かに歩き出した。


          ◆


 中御門の姫君と、右馬佐うまのすけは平民の旅姿に身を包み、六条河原の東海道脇で闇に紛れ、動きを待った。冷たい風が、普段は顔にかからない髪を揺らす。右馬佐が、隣を歩く姫君に静かに問いかけた。


「姫。私は吾妻わがつまを、何とお呼びすればよいのでしょう?」


 「吾妻」という言葉に、姫君は少し顔を赤くする。胸の中に、小柴と採った蛍の淡い光が浮かび上がった。


「では、わたくしを蛍とお呼びください」


 右馬佐は、闇の中で楽しそうに笑った。


「さすが、高貴に輝く虫の名とは。では、私のことは左馬さまとお呼びください。右から左に変えてみました」


 その言葉に、姫君も小さく笑う。慣れない旅への不安が、少しだけ和らいだ。


 その夜、闇の中を複数の影がゆっくりと蠢き、街道へと進んでいく。人影はまとまっておらず、先導する錫杖を持った行者姿の男の後ろを、三組の男女が間隔を空けてついていく。まるで、互いに見知らぬ同士が、一つの目的のために集まったかのようだ。


「左馬」


 姫君が囁く。


「…あれですな」


 右馬佐も静かに頷いた。二人は三組の後を、夜の闇に溶け込むように離れて追った。東海道から山陰道へ。彼らの足は、ただ都から逃げるだけでなく、希望へと向かっている。蛍と名乗ることにした姫君と、左馬こと右馬佐は、その希望の光を、自分たちの目で確かめるために、静かに進んだ。




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※堤中納言物語「虫愛づる姫君」

https://koten.kaisetsuvoice.com/tutumi.html

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