第17話 古の知識

 夕日が山麓を金色に染める中、リズは意を決してテュラン修道院の扉を叩いた。

 重厚な木の扉が静かに開くと、濃紺の修道服を着た若い修道士が現れた。穏やかな表情で、来訪者を見つめている。


「夕刻に恐れ入ります。フラウゼ・マルティス院長にお会いしたいのですが」


「院長に、ですか? 失礼ですが、どちら様でしょうか」


「リズと申します。エルフのリズと言っていただければ、わかると思います」


 修道士は一瞬考え込んでから、丁寧に頭を下げた。


「少々お待ちください。お取り次ぎいたします」


 石造りの廊下を歩く足音が遠ざかっていく。リズは修道院の静寂に包まれながら、心の準備を整えていた。


(本当の自分として向き合おう)


 やがて足音が戻ってきて、年配の修道士が現れた。白髪混じりの髪に深い皺が刻まれているが、その瞳には知性の光が宿っている。長い歳月が流れても、その光は当時のままだった。


「覚えておいでですか? リズです」


「おお、リ──いや、リズ殿!」


 フラウゼ・マルティス院長の顔が驚きで輝いた。


「そういえば、あなたは本名で呼ばれるのは、お嫌でしたな」


「いえ、あの頃は、意固地になってただけです。もう、そんな子どもじみたことは止めようかなと思っています」


「そうですか……」


 フラウゼは温かく微笑んだ。


「それにしても、また、こんな辺境の修道院まで足を運んでくださるとは」


「お忙しい中、申し訳ありません」


「とんでもない。どうぞ、中へ。数十年ぶりですね。ゆっくりお話ししましょう」


 院長室は、書物に囲まれた学者の部屋だった。

 壁一面の書棚には古い羊皮紙の巻物や分厚い書物が並び、机の上には羽根ペンとインク壺、そして読みかけの古文書が置かれている。窓からは修道院の中庭が見え、静かな噴水の音が聞こえていた。


「まずは茶でも」


 フラウゼは自ら茶を淹れながら、リズを椅子に座らせた。


「しかし、お変わりありませんね。エルフの方は、やはり歳を取られないものですな」


「ありがとうございます。院長こそ、お元気そうで」


「いやいや、この歳になると、体のあちこちにガタが来ましてね」


 フラウゼは苦笑いを浮かべながら、茶を差し出した。


「それにしても、あなたに院長と呼ばれると、なんだかこそばゆいですね。昔のようにフラウゼとお呼びください」


 ふたりは昔を懐かしむかのように微笑んだ。


「それで、どのような御用で? まさか、観光というわけではないでしょう」


「実は……」


 リズは王国各地の混乱について、技術と政治の関係として整理しながら説明した。ジョルジュの純粋な理想、それを悪用する政治的思惑、そして現在の絶望的な状況。


 フラウゼは黙って聞いていたが、やがて深いため息をついた。


「なるほど……技術の進歩と、それを巡る権力闘争ですか」


「はい。どうすれば、技術を悪用されずに済むのか。何か、解決策があるのでしょうか」


「興味深い問題ですね」


 フラウゼは立ち上がり、書棚から一冊の古い書物を取り出した。


「実は、古い時代にも、似たような問題があったようなのです」


「似たような?」


「ええ。王室創建期の記録に、『万人魔法普及』を目指した古代の賢者たちの研究が記されています」


 リズの目が輝いた。


「万人魔法普及……それは、ジョルジュが目指していたものと同じですね」


「そうです。そして、彼らもまた、技術の悪用という問題に直面していた」


 フラウゼは古い書物の頁をめくりながら続けた。


「ただし、それらの詳細な理論は、一般には公開されていない古文書に記されています」


「古文書……」


「ええ。王室の機密文書として、この修道院に保管されているものです」


 フラウゼはリズを見つめた。


「今のあなたなら、その真の価値を理解できるでしょう。そして……きっと、問題の解決にも役立つはずです」


 修道院の地下は、まさに知識の宝庫だった。石造りの回廊に沿って、無数の書架が並んでいる。古い羊皮紙の匂いと、ほのかな蝋燭の匂いが混じり合い、何世紀もの時の重みを感じさせた。


「ここが古文書保管庫です」


 フラウゼは蝋燭を掲げながら、奥へ向かった。


「王室創建期から現在まで、重要な文書はすべてここに保管されています」


「すごい……」


 リズは感嘆の声を漏らした。昔、訪れた時には案内されなかった部屋──これほど多くの古文書を見るのは初めてだった。


「ああ、これですな」


 フラウゼは一つの書架から、特に古い羊皮紙の束を取り出した。表紙には古代文字で何かが記されている。


「『我らの言葉は、神との契約』……これが、古代の契約詠唱理論です」


「契約詠唱理論?」


「ええ。魔法を『契約』として捉えるものです」


 フラウゼは羊皮紙を慎重に開いた。古代文字で書かれた文章が、蝋燭の光で浮かび上がる。


「この理論によれば、魔法は使用者の『言葉』と『思い』の一体化によって成立する」


「言葉と思い……」


「そうです。科学的に考えると、発せられる詠唱は、その『思い』によって、音韻や抑揚に変化が現れる。それがマナの振る舞いに作用するのです」


 リズは驚いた。修道院で〝科学的〟という言葉が出ることに、いささかの驚きを持った。


「科学的、ですか?」


「ええ。古代の賢者たちは、魔法を単なる神秘ではなく、法則性のある現象として研究していたのです。『思い』が音韻に与える影響、それがマナに及ぼす効果……すべて体系的に分析されています」


「つまり、同じ詠唱でも、込められた思いによって……」


「音の微細な変化が生まれ、それがマナの共鳴パターンを決定する。表面的な動機では、言葉に必要な『響き』が生まれないのです」


 フラウゼは別の頁を開いた。


「さらには、魔法陣に、その作用を術式として組み込むことを考えたのです」


 そこに描かれた魔法陣を見て、リズは息を呑んだ。


「これは……現在使われている魔法陣とは全く違いますね。そうだ、ここの壁面にも彫られていましたね」


「ええ。幾何学的な直線や角ではなく、まるで流体のような曲線で構成されています」


 古文書に描かれた魔法陣は、確かに美しい曲線が有機的に絡み合っていた。まるで川の流れや、風の軌跡を写し取ったかのような滑らかさがある。


「なぜ、このような形に?」


「音韻の変化、思いの揺らぎ──それらは直線的ではなく、流れるように変化します。古代の賢者たちは、その『流れ』を魔法陣で再現しようとしたのです」


「つまり、使用者の思いの変化に応じて……」


「魔法陣自体が反応し、最適な魔法効果を生み出す。まさに『契約』にふさわしい、柔軟で応答性のある術式なのです」


 リズは魔法陣の美しい曲線を指でなぞった。冷たい羊皮紙の上で、まるで温かい生命を感じるようだった。


「この魔法陣の構成は、未だに全ては解明されておりません」


 フラウゼは別の書物を取り出した。こちらはより新しく、比較的読みやすい文字で書かれている。


「しかし、現在の魔法陣でも、それに近い構成は再現できるのではと考えられています」


 新しい書物には、古代の流体的な魔法陣と、現代の幾何学的な魔法陣を対比した図面が描かれていた。そして、その中間に位置するような、部分的に曲線を取り入れた魔法陣の設計図も。


「これは……」


「ええ。修道院の研究者たちが、長年かけて考案した『応用版』です。古代理論の完全な再現は困難ですが、その一部でも現代技術に組み込めれば……」


 リズは設計図を見つめた。確かに、ジョルジュの宝珠技術と組み合わせることができそうな構造だった。


「つまり、段階的な改良によって、古代の理想に近づくことができる、と?」


「そういうことです。一足飛びには無理でも、着実に前進することは可能でしょう」


 フラウゼは満足そうに微笑んだ。


「あなたのご友人の技術と、この古代理論を融合させれば……真に安全で、責任ある魔法技術が生まれるかもしれません」


 フラウゼは古文書の別の頁を示した。


「はるか昔、言葉が『神との契約言語』により近い時代は、より直接的な作用を起こせたのでしょう。我々は、それを『祖語の時代』と呼んでいます」


「これは私見ですが、エルフの方々が使う言葉に、祖語の残滓があるのではと考えております。エルフの言葉は人間にはほとんど知られていないため、想像でしかありませんが……」


 リズは驚いた。まさか人間の学者が、エルフ語にまで考察を及ぼしているとは。


「いえ、その通りだと思います」


 リズは静かに答えた。確かに、エルフ語で詠唱すると、人間の言葉とは異なる深い響きが生まれる。それは単なる言語の違いではなく、何か根本的に異なるものだった。


「院長がお考えの通り、エルフ語では『思い』と『音』が生まれながらに一体化しています。人間の言葉が概念を音に変換するのに対し、私たちの言葉は感情そのものが音となって現れるのです」


「最初から『力』を持った言葉、ということですか?」


「そうです。実は、エルフには特別な詠唱なしでも使える魔法があります。言葉そのものに、すでにマナを動かす力が宿っているからだと思います」


 フラウゼの目が輝いた。


「祖語は、いまだに不明な点も多いのです。むしろエルフ語にそのヒントが隠されているのではないでしょうか?」


 フラウゼの言葉に、リズは深い感銘を受けた。人間の学者でありながら、これほどまでにエルフの言語的価値を理解している人物がいるとは。


「私たち人間の言葉は、長い年月の中で『神との契約言語』から遠ざかってしまった。しかし、エルフの皆様は、その源流により近い言葉を保持しておられる」


「そう言っていただけると……」


 リズは少し照れくさそうに微笑んだ。


「実は、エルフの中でも古い言葉を知る者は少なくなっています。私も、完全に理解しているわけではありません」


「それでも、人間よりもはるかに祖語に近い言葉をお使いです。もし、この古代理論とエルフ語を組み合わせることができれば……」


 フラウゼは興奮を抑えきれない様子だった。


「真の意味での『契約の詠唱』が復活するかもしれません。それはまさに、詠む人の『思い』まで汲み取る魔法です」


 リズの心に、エルフとしての誇りと責任感が湧き上がってきた。自分の持つ言語的遺産が、これほど重要な意味を持つとは。


 夕食後、リズは修道院の中庭で一人静かに考えていた。

 石造りの回廊に囲まれた中庭には、小さな噴水と質素な庭園がある。星空の下で、水の音だけが静かに響いていた。


(契約詠唱理論……まさに、求めていた答えがここにあった)


 古代の賢者たちも、同じ理想を抱いていた。そして、技術の悪用という同じ問題に直面し、それを解決する方法を見つけていた。


(でも、なぜ私がこの知識に出会ったのだろう?)


 それは偶然ではないような気がした。長い間、人間社会に関わり続けてきた理由。エルフとして生まれた意味。すべてが、この瞬間に収束していくような感覚があった。


(エルフは見届ける者……でも、見届けるだけでいいのか──)


 故郷の森で聞いた族長の言葉が蘇る。しかし今は、その意味が違って聞こえた。


(見届けるだけではなく、継承する者。知識を未来に伝える者)


 エルフの長寿は、知識を保存し、必要な時に蘇らせるためのものなのかもしれない。そして今こそ、その使命を果たすべき時なのだ。


(私は、エルフとして生きよう)


 今思えば、本来の自分──エルフとしての生き方から逃げていた。しかし、もう逃げない。エルフの自分として、この知識をジョルジュのもとに届けよう。


 立ち上がり、修道院の建物を見上げる。古い石造りの壁が、月光を受けて静かに光っていた。


(ジョルジュ、待っていて。必ず、正しい道を見つけるから)


 翌朝、フラウゼは重要な文書の複写を許可してくれた。


「持ち帰って、よく研究してください」


 院長室で、フラウゼは古文書の束をリズに手渡した。


「ただし、この知識の重要性を理解し、適切に扱える方にのみ伝えてください」


「承知いたしました」


 リズは深々と頭を下げた。


「それにしても……」


 フラウゼは窓の外を見つめながら呟いた。


「あなたがエルフとしての誇りを受け入れられたこと、とても嬉しく思います」


「ありがとうございます」


「きっと、神の御意志に適う行いです。古い知識を現代に蘇らせ、人々を救うこと……これ以上に尊い使命はありません」


 フラウゼの励ましの言葉に、リズの心は温かくなった。


「お世話になりました。いつか、必ず良い報告をお持ちします」


「楽しみにしております。お気をつけて」


 修道院の門前で、リズは振り返った。朝日を受けて、古い石造りの建物が荘厳に輝いている。ここで得た知識は、必ず未来を変える力になる。


 馬車に乗り込みながら、リズは胸の奥で誓った。古代の契約詠唱理論という光を携え、ジョルジュのもとへ帰ろう。そして、正しい形で『誰でも魔法を使える世界』を実現するのだ。


 長い人生の中で初めて、リズは自分の使命をはっきりと理解していた。知識を継ぐ者として、未来を結ぶ架け橋として。──もう迷わない。

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