骨と皮のすき間に

キリ

優しくしてね

彼女はその式が終わった夜に、ホテルの部屋で、上着を乱暴に脱ぎすててこう言った。

「骨って、あんなに軽いのね」

そうだねえ。

「でも、今、自分の身体を持ってると、全然そんな感じしないな」

そうだねえ。

僕たちの骨は包まれている。骨があって、その周りが厚く包まれている。生きているということだ。

「お腹すいた」

「お腹すいた?」

「お腹すいた。お腹すかないの?」

「お腹すかないよ。さっき食べたじゃん」

「あーお腹すいたなあ」

彼女は部屋の隅においてある小さな棚に、小分けになったお茶の葉がおいてあるのに気付いた。「お茶!」そうだね。お茶だね。彼女が今日やけにテンションが高くて、さっきは真っ黒のつやつやのカバンのそこにある飴玉を数えていた。前の葬式の時に入れたやつと言ってたけど、そんなことがあるものだろうか。それもぱちぱちするやつ!すごく、ぱちぱちするやつ!!!僕はホテルまでの道で三粒食べさせられたのだった。

「飲む?」

「飲む」

「お茶、久しぶり」

「え?」

「いや、飲んでるか。全然飲んでる」

「そうでしょ」

「ねえなんか悲しくない?」

彼女が急に大きい声を出すからびっくりした。びっくりした顔を見て彼女がけらけらと笑う。

「悲しいよ」

僕は本当に悲しくて(彼女が変になっているのも悲しくて)、僕もつられて語気を強めてしまった。

「悲しい?」

「悲しい」

「どう悲しいの?人生で何番目に?」

三番目だなあ、とすぐに思った。本当に罰当たりな人間だなと思った。犬が死んだときが一番悲しかったし、おばあちゃんが死んだときが二番目に悲しかった。僕は順番をつけれる。順番をつけれるし、それでも全部の別れが悲しい。

「決められないね?」

「……決められない」

「偉い!」

その時、じゃあ僕って偉くないんだ、と小さなショックを受けた。嫌になって。

「もう、寝るから」

と僕が言い放つと、

「はあ?ねえ、お茶飲もう。今から水を熱くするから」

と彼女が変なことを言った。

「水を熱くするから?」

僕が怪訝な顔で見つめたら、彼女は手をたたいて喜んだ。変だ。

「もう、やめようよ」

「何を」

「こうやってさ、寝ないのを」

「寝ないのをやめる?」

「寝ようってこと」

彼女はまた手をたたいて喜んだ。思えば全く眠くない。よくない光を浴びてるみたいだ。豆苗とかを育てる工場の光みたいに、僕の行き先を縛ってくる。やめてほしい。僕はどこにも行きたくないし、早く眠くなりたいんだ。二つある白いベッドのうち、彼女が今座っている方はもう袋のごみが散乱していた。

「お腹がすいて、わたし寝れない」

「食べればいい」

「食べるものがないの!ね!」

「買えばいい」

「買うのは違うから」

「うるさいよ。もう夜なのに」

「骨って!!」

彼女はまた大声を出した。僕は怖くなって何もしゃべれなくなった。僕の代わりに、お湯を沸かすポットが鳴る。

「あ、沸いたね」

彼女は、落ち着いた様子で、ポットをとった。小さな器が二つ。ゆっくり、彼女の優しい手つきで液体に満たされていく。

「ありがとう」

「ううん」

「いいよ、喋って」

「はあ?」

「はあ?」

喋りたいなんて言ってない!と、彼女はわめきだした。これをなだめるのが得意な人たちはここにはいない。いなくなってしまったのだ。失踪したヤツ。家庭を持ったヤツ。最後の一人も……

僕は挙句の果てにイライラしだして、勝てるわけもない口論を始めそうになっていた。僕だって頭が回らないわけじゃないが、時間あたりに発される言葉の数が彼女よりも圧倒的に少なかった。不利であることは確かだった。彼女はずっと言葉をしゃべっていたけど、途中から全然聴き取れなくなって(僕が疲れすぎてたのか?)、もう僕は聴き取る努力もやめた。あの頃は、僕以外の全員がこの口論に参加していて、それはもう大規模だった。声量がでかいし、全員元気で、動きもうるさくて、僕は毎日のようにそれを眺めていた。でもなぜだか、疲れるとかはなくて、議論が終わるころに一種のカタルシスを感じてうれしい時もあったのだ。五年前くらいに感じる。正確には二年前のことだ。あいつらの声の、波形を僕は忘れていて、もう今は「騒音だった」ことしか僕の脳には刻まれていない。あの騒音。丁寧に、絡まった糸をほどけば、そのうちの一本は彼女の声なのだ。でもなんだか、実感がない。

「ねえ」

「えっ」

彼女が、僕の目の前に、お茶の入った器を差し出した。僕は熱いのが怖くて、注意深くその器を両手で受け取った。

「ねえ」

「……なに」

「置いてかれてるよ」

えっ、とまた声を出しそうになって、下の方に押し込めた。彼女の声はかすれていて、目がうるんでいた。いや、違う、泣いてるのだ。そう気づいて、一気にいやな気分、というか、本当は感じていた複雑な喉元の痛みを認めてしまった。

「置いてかれてるよ!」

「ねえ、寝ようよ」

「置いてかれてる!!!」

彼女は激昂した。ホテルの部屋に響いたそれは、壁なのか天井なのかに振動を伝えた。どこかの神社で見せてもらった鳴き龍みたいだ、と思った。僕の中の水分も共鳴して鋭く僕を揺らした。やめてくれ、もう他人の内側に入り込みたくない。……

「ねえ、あんた、嫌でしょ、置いてかれるの」

「……」

「ねえ、どうしよう」

どうしよう、の声色が、ぞっとするほど色気を含んでいて、僕はもう今日あったすべてのことから目をそらしたくなった。いやだと思った。彼女と本気で対峙することはおそらく危ないことで、きっと僕の身体と精神はそのうち全部彼女に飼いならされてしまうのだ。これは避けてきたことだ。僕以外の三人ならうまくやっていたことなのに、もう三人と一緒でない僕は何からも逃げられなくて、どんどんいやな気持ちになっていった。彼女の深さを知りたくない。彼女がどれだけ思い詰めているかを知りたくない。人生の大事な部分に注ぐべき全部を持っていかれる気がして、早くここを出たいと願った。

「あたしは嫌。置いてかれたくないもん」

彼女は、わざとらしいあどけない声を作ってそういった。彼女が僕のためにこんなにたくさんしゃべったことがあっただろうか?彼女は、熱いはずのお茶を一口飲んだ。僕も焦って、一口飲む。

「でもどうしたらいいかわかんないんだよ?」

「うん」

「骨があんなに軽いって知ったら」

「うん」

「明日から何すればいいかわかんなくなる」

「うん」

「あんたは結婚式開く?」

「え?」

「開くの?」

「開くんじゃない?」

「じゃあ、今日の喪服で行ってあげるね。私だけ、お線香の香水つけてってあげる」

「また、そうやって……」

彼女は、お茶のカップを両手で持って、ふふふと笑った。嘘くさい!と叫びそうになったけど、なんだかその笑みを嘘と言い切れる雰囲気ではなかった。僕たちはもう二人きりだった。とんでもなく寂しい。叫びたくなるほど胸が痛くて、視界がぐらついているみたい。

「ねえ」

「寝るよ」

「お茶飲んだらどうしよう」

「寝ようよ」

「寝るの?」

「寝るよ」

「私今死んでるかも」

「寝るよ」

「生きてるのってどう確認するの」

「お前は、喋ってるから、死んでない」

「死んだら喋らない?」

「寝るよ」

はあ、と彼女がため息をついて、鼻をすすった。それがまるで少女みたいで、とても愛おしく思ったけど、そのあと一気にまたいろんなものが混ざった変なのが僕の胃の上の方をぐちゃりと刺してしまった。僕は、お茶を一口分くらい残して、清らかな方のベッドにもぐりこんだ。「もういいの?もう寝るの?」彼女に背を向けたら、真っ白な壁が目の前にあって、それがスクリーンのように機能しまた今日の骨のシーンが思い出される。彼女が僕の背中に言う。

「ねえ、死なないでね」

「死なないよ」

「死んだら悲しい」

彼女の声が、震えを必死に抑えている様子なのが分かって、僕はまた自分が嫌になった。お互いの寂しさの表面を言葉で撫でる。あの時の騒音がない。彼女を寂しいままにしているのは、やっぱり僕の責任なのだ。彼女の内部に埋められた≪さみしい≫を掘り起こして強く強く握りつぶしたい。僕は不器用で、彼女の心をどうしようもできないのが嫌だ。僕は一瞬で、思いつく限りの僕ら二人の関係性のパターンに思いをはせて、いろんな理由をつけてそれぞれ丁寧に燃やした。僕らは何をしても、一つにはなれない。でも寂しいのは確か。だからなんとかうまくぶつかって愛し合わなければ、身体ごとつぶれてなくなりそうだ。僕らの骨はまだ包まれているから……何に?

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骨と皮のすき間に キリ @tyoutyouhujin

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