第十九話:見えざる罪

2043年1月1日

ダンジョン探索会社社長・黒田 竜也

都心・高層ビル最上階


都心の高層ビル最上階。床から天井までガラス張りの、広大でモダンな社長室から、昇り始めたばかりの初日の出が望めた。

しかし、黒田 竜也くろだ たつやは、その荘厳な光景に見向きもせず、高級な革張りの椅子に座り、ホログラムディスプレイを眺めていた。新年にもかかわらず、彼は執務室にいた。

ディスプレイの左側には、彼の会社の莫大な利益を示すグラフがそびえ立ち、右側には、彼自身の個人情報が表示されている。その中にある「カルマ値」の項目は、清廉さを示す青色で、高い数値を保っていた。


「フン…素晴らしい。これこそが俺の正義だ」


齢四十代前半の、非覚醒者。彼は、自らの辣腕で、この混乱した世界に生まれたダンジョン利権ビジネスの頂点に君臨していた。彼自身が手を汚すことはない。法やシステムの穴を突き、弁護士やコンサルタントを駒のように使って、弱者から利益を吸い上げる。それが彼のやり方だった。

カルマなどという曖昧なもので、俺のビジネスは揺るがない。見つからなければ、罪ですらないのだからな。

彼は、新年の祝杯をあげようと、デスクの上の高級なクリスタルグラスにシャンパンを注いだ。


黒田 竜也が、シャンパンの入ったグラスを手に取った、その瞬間だった。

ピリッ。

彼の指先に、微かな、しかし鋭い痛みが走った。見ると、指先から一筋、血が滲んでいる。


「チッ…グラスに傷でもあったか。安物ではないはずだが」


彼はハンカチで指を拭い、気を取り直してディスプレイに目を戻した。

その時、彼は自分の目を疑った。

完璧な数値を保っていたはずの、自身のカルマ値。小数点以下のレベルで、わずかに、しかし確実に「低下」していた。


「…なんだ? システムのエラーか?」


彼は何度も画面を更新するが、数値は変わらない。彼の額に、じわりと冷たい汗が滲んだ。これまで感じたことのない種類の、静かな恐怖が、彼の内側から湧き上がってくる。


黒田 竜也は、パニックになりながら、最近自身が承認した「グレーな」案件のリストを、ディスプレイに表示させた。競合他社のダンジョン進入ルートを、事故に見せかけて岩盤崩落で塞いだ件。有望な個人探索者を、不利益な専属契約で縛り上げた件。どれも、法には触れていない。物的証拠も残していないはずだった。


彼の脳裏に、数週間前の光景がよぎる。

薄暗い事務所。一人の若い探索者が、不当な契約書を前に、絶望の表情で懇願していた。


「お願いします…これでは、僕たちは生きていけません…!」


黒田 竜也は、冷たく言い放った。


「契約は双方の合意の上だ。嫌なら、君がこの世界から消えればいい。代わりはいくらでもいる」


彼は、あの若者のカルマ値が、あの日を境に急落したことを報告書で見ていた。あの時、彼はそれを「自己責任だ」と嘲笑ったのだ。


彼は、悟った。


カルマ値システムは、法や物理的な行為だけを判断しているのではない。他者の魂に与えた「負の影響」そのものが、因果応報のように、自分の魂に跳ね返ってきているのだ。


「馬鹿な…! これではビジネスにならない! 俺は何もしていない! 指示をしただけだ!」


彼が築き上げてきた成功の方程式が、根底から崩壊する。恐怖と怒りが、彼の心を支配した。彼は、この理不尽なシステムを出し抜くための、新たな策謀を練り始めなければならなかった。


黒田 竜也は、秘書に内線電話をかける。


「おい、すぐに多額の寄付先リストを用意しろ。慈善団体、環境保護団体、なんでもいい! 我社が、いかに社会に貢献しているかを大々的にアピールするんだ!」


「は、はあ…しかし、新年早々、急にどうされましたか?」


「うるさい! やれと言ったらやるんだ!」


彼は、電話を叩きつけるように切った。しかし、すぐに気づく。カルマ値を回復させるための「善行」。その行為自体に「下心」があることを見透かされれば、さらにカルマ値が下がるのではないか? 彼は、出口のないパラドックスに陥っていた。


その時、彼の端末にニュース速報が届いた。見出しには「魂科学NPO、悪質企業の不正を告発か」の文字があった。

黒田 竜也は、自らのオフィスの中で、誰にも見えない「魂の牢獄」に囚われたことを自覚した。彼の権力と富は、いつ魂の崩壊と共に失われるか分からない、砂上の楼閣と化したのだった。


魂が可視化された世界では、もはや隠し通せる罪はない。一人の経営者の失墜は、新たな時代の倫理観が、権力や富といった旧時代の価値観を凌駕し始めたことを示していた。誰もが、自らの魂の裁判官から、逃れることはできないのだ。

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