第二部:深淵 - The Abyss

第八話:地下の脈動

2037年2月12日

地質学者・藤原 秀明

政府管轄・地下観測施設


静寂が、薄暗い施設内を支配していた。モニターの青白い光と、サーバーの低い動作音だけが、時の経過を告げている。壁には、日本列島の巨大な地層マップが、複雑な等高線を描いて映し出されていた。


地質学者・藤原 秀明ふじわら ひであきは、四十代に入り、その顔には研究者特有の疲労と探究心が深く刻まれていた。彼は複数のモニターに映し出された無数のグラフを、険しい表情で睨んでいる。机には冷めたコーヒーと山積みの資料。そして、一枚だけ、色褪せた写真が立てかけられていた。二十年前、三十代後半の若さで亡くなったという遠縁の叔父、藤原 拓海の写真だ。


二十年にわたるヒーローたちの戦いは、数年前にようやく終結した。世界は、深い傷跡を残しながらも、表向きの平穏を取り戻している。秀明の仕事も、世界樹の根が地殻に与える影響の定常観測という、地味で退屈なものに変わっていた。


その時、秀明のモニターの一つが、微かな警告音と共に、異常な波形を表示した。それは地震波とは全く異なる、奇妙に規則的で、まるで何かが構築されていくような波形だった。


インターホンから、同僚の気だるげな声が響く。


「藤原さん、また例のノイズですか? 上層部は機器の故障だって言ってますよ」


秀明はマイクに向かって応えた。


「いや…これはノイズじゃない。何かが『構築』されている音だ…」


秀明は、過去のデータファイルを開いた。そこには、叔父・拓海が遺した、2017年のオウムアムアに関する不可解なデータが、最高機密として保管されていた。今、目の前で発生している波形と、叔父のデータに記録された未知のエネルギーパターンが、不気味なほど酷似していることに、彼は気づいていた。


叔父さんが見ていたのは、これだったのか…?

科学者としての好奇心と、得体の知れない不安が、彼の心を支配し始めていた。


上層部に報告しても「観測機器のノイズ」として処理されるだけだと判断した秀明は、単独で、より危険な深層の観測ポイントへ向かうことを決意した。ヘルメットを被り、ヘッドライトを点灯させる。彼の足音だけが、無機質なコンクリートのトンネルに響き渡った。

壁面には、数年前に設置されたはずの観測用ケーブルが、まるで植物の根のように岩盤に食い込み、ぬめりのある奇妙な苔に覆われている。地中の環境そのものが、未知の要因によって静かに変質していることを示す光景だった。

彼は、非科学的だと一蹴してきた「黒いモヤ」の存在を、初めて現実のものとして感じ始めていた。背筋に、冷たい汗が流れる。


観測地点の終点。その先に、ヘッドライトの光が届かないほどの、巨大な地下空洞が広がっていた。自然にできた洞窟ではない。明らかに、何者かによって「造られた」空間だった。

秀明は、息を呑み、一歩足を踏み入れる。空洞の壁は、まるで巨大な生物の内壁のように、ゆっくりと脈動している。空気が、邪悪なエネルギーで満ちているのを肌で感じた。

彼は、空洞の奥に、何かがあることに気づいた。

黒いモヤが、濃密に渦巻いている。その中心で、まるで心臓のように明滅する、奇妙な結晶体。それは、かつて彼が夢中になったゲームに出てきた、ダンジョンコアそのものだった。


「まさか…本当に…こんなものが…」


彼の科学的常識が、完全に覆された。これが完成すれば、この地中から、一体何が現れるというのか。彼は、震える手でデータ端末を取り出し、この光景を記録しようとした。


秀明が記録を開始した、その瞬間だった。

ゴゴゴゴゴゴゴッ!

施設全体を揺るがす、激しい地響きが発生した。彼が立っている地下空洞そのものが、轟音と共に崩壊を始めたのだ。


「しまっ…!」


天井から巨大な岩塊が、雨のように降り注ぐ。壁に亀裂が走り、足場が崩れ落ちていく。

彼は必死に出口へと向かって走るが、間に合わない。巨大な岩塊が、彼の頭上に影を落とした。

彼の意識は、そこで暗転した。


後日、政府の公式発表は、原因不明の大規模な地殻変動による、観測施設の崩落事故、とされた。藤原 秀明の名は、殉職者リストに加えられた。彼が最後に見たものの真実は、誰にも知られることなく、深い地中の闇に葬られたのである。


藤原 秀明の警告は、誰にも届かなかった。しかし、地底の脈動は止まらない。人類が偽りの平穏を謳歌するその足元で、世界を覆い尽くす迷宮、ダンジョンは、静かに、そして着実に、その入り口を開こうとしていた。

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