第九話:創造主の夢
2037年3月15日
インディーゲーム開発者・五十嵐 創
自宅兼作業室
薄暗いワンルームは、無数の資料と機材で足の踏み場もなかった。脱ぎ捨てられた服、エナジードリンクの空き缶、食べかけのカップ麺の容器などが散乱している。その混沌の中心で、PCモニターの青白い光だけが煌々と灯っていた。
「…すごい…最高のアイデアが、湯水のように湧いてくる…!」
恍惚とした呟きが、静かな部屋に漏れた。彼は、慢性的な頭痛をこめかみを押さえてこらえながらも、創作活動に没頭している。
ここ数ヶ月、五十嵐 創は奇妙な夢を見ていた。
それは、彼がデザイン中のダンジョンや、創造した魔物たちが、驚くほどリアルに動き出す夢だった。石壁は、湿った冷たさを帯び、遠くから滴る水の音と、何かの唸り声が聞こえる。松明の炎が、壁に不気味な影を落とす。夢の中の彼は、まるで神にでもなったかのように、その世界を自由に歩き回っていた。
通路の角から、緑色の醜い肌をしたゴブリンが現れる。五十嵐 創がデザインした通りの、粗末な棍棒を手にしている。
夢の中の彼は、満足げに頷く。そうそう、お前はそこに配置するんだったな、と。
ハッと目を覚ます。机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。激しい頭痛と、胃の腑からせり上がってくるような吐き気が彼を襲った。
「うっ…」
しかし、彼はすぐにPCに向かい、夢で見た光景を必死にデータに落とし込んでいく。ゴブリンの配置、隠し通路のギミック、罠の数々。彼は、この異常な創作意欲の高まりを、天からの啓示のように感じていた。だが、心のどこかで、自分の脳が、何かに「利用」されているという感覚が芽生え始めていた。彼はそれを、天才が故の苦しみだと、都合よく解釈していた。
数日後の夜、再び、夢の中。
五十嵐 創は、自らが設計したダンジョンの最下層に立っていた。そこは、広大なドーム状の空間。
その中央で、無数の黒いモヤが渦巻いていた。
その時、脳内に直接、声が響いた。
『…もっとだ…もっと我らの棲家を…お前の創造力で…』
彼は、夢の中で絶叫した。
「うわあああっ!」
激しい頭痛と共に、叫びながら飛び起きる。心臓が激しく脈打ち、全身は汗でびっしょりだった。
「今の…声は…なんだ…?」
その時、PCのスピーカーから着信音が鳴った。画面には、同業のクリエイターである友人の名前が表示されている。
「もしもし、創? 大丈夫か? お前、最近ずっと連絡つかないじゃないか。飯食ってるのか?」
「ああ…大丈夫だ。今、最高傑作を創ってるんだ。邪魔しないでくれ」
「お前の声、ひどいぞ。隈もやばいんじゃないのか? 一度病院に行った方が…」
「うるさい! もう切るぞ!」
彼は、一方的に通話を切った。彼の目には、焦燥と、狂気にも似た光が宿っていた。
さらに数日が過ぎ、彼の肉体と精神は、限界を超えた。
PCに向かっていると、突然、彼の頭の中から、全てのアイデアが消え失せた。これまで泉のように湧き出ていた創造力が、完全に枯渇したのだ。同時に、脳から何か大事なものを、根こそぎ吸い取られたかのような、凄まじい虚脱感に襲われた。
「(か細い声で)もう…何も…出てこない…」
絶望と、諦め。彼は、自分の才能が尽きたのだと誤解した。しかし、その表情には、長期間のプレッシャーから解放されたかのような、わずかな安堵も浮かんでいた。
彼は、最後の力を振り絞り、マウスを操作する。モニターに、彼が最も気に入っていたキャラクター、ゴブリンを統率する、少しだけ賢いゴブリンリーダーの3Dモデルを、愛おしそうに表示させた。
「お前は…俺の…最高…」
言葉は、途切れた。
彼は、椅子に深くもたれたまま、静かに息を引き取った。その顔は、苦痛から解放されたかのように、穏やかだった。
数日後、彼の部屋を訪れた友人によって、その亡骸は発見される。死因は「過労による心不全」。彼の死の真実は、誰にも知られることはなかった。
同時期。
世界各地で出現し始めたダンジョンから、初めてゴブリンリーダーと、彼が率いる統率されたゴブリンの一団が、地表へと現れ始めることになる。
一人のゲームクリエイターの死は、誰にも知られることなく、世界の片隅で起きた小さな出来事として処理された。しかし、彼の脳が生み出した悪夢は、現実となって地下から溢れ出し、やがて来るべき魔物の時代の尖兵となったのである。
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