第一部:変貌 - The Metamorphosis

第二話:世界樹の誕生

2017年10月14日

海上自衛隊士官・三浦 健

太平洋上・護衛艦「いずも」艦橋


艦橋内は、静かな緊張感に包まれていた。

レーダーやソナーの電子音が、まるで時を刻む秒針のように規則正しく響いている。窓の外には、夕焼けに染まる太平洋がどこまでも穏やかに広がっていた。その穏やかさとはあまりにも不釣り合いな存在が、海面にその巨体を突き刺している。


巨大で細長い、鈍い金属光を放つ物体、オウムアムア。


三浦 健みうら けんは、双眼鏡を手に、食い入るようにその物体を見つめていた。齢二十代後半の、若き士官である。彼の引き締まった表情は、この異常事態の最前線にいるという重圧と、軍人としての使命感がない混ぜになって硬直していた。


隣には、四十代の上官が腕を組んで立っている。


「着水時の衝撃はほぼゼロ。津波の心配もなし、か。不気味なほど静かだな」


「はい。まるで、水に氷をそっと入れたような…」


「周辺には、米軍の第七艦隊、中国の空母打撃群。睨み合いもここまで来ると笑えてくる。一体、何が始まるんだか」


レーダーモニターには、オウムアムアを取り囲むように、多数の艦船を示す光点が点滅していた。日米中、各国が一歩も譲らぬ構えで集結し、海域は一触即発の様相を呈している。


「これは戦争でも、災害でもない。全く新しい…事態です」


三浦 健の言葉に、上官は彼の横顔を見て、小さく頷いた。


「ああ。嵐の前の静けさ、でなければいいがな…」


二人は再び黙り込み、夕闇に溶けゆく異様な物体を、ただ見つめ続けるしかなかった。


翌朝、水平線から太陽が昇り、艦橋を照らした。

夜勤の隊員たちが疲れた表情で任務を引き継ぐ中、当直の若い隊員の一人が、メインモニターを監視しながら不意に声を上げた。


「ん…? なんだこれ…」


彼は画面を拡大する。オウムアムアの表面に、小さな緑色の光点が明滅していた。


「士官! あれを見てください!」


その声に、非番のはずの三浦 健が駆け寄る。彼はモニターに映し出された光景に息を呑んだ。


「植物…なのか…?」


彼はすぐさま双眼鏡を手に取り、窓の外のオウムアムアに焦点を合わせた。その滑らかに見えた表面から、確かに、地球上のいかなる植物とも似ていない、深緑色の芽が伸びている。それはまるで、金属質の殻を破って生まれた、異質な生命だった。


上官も隣に来て、呆然と呟いた。


「石から芽が出た、とでも言うのか…」


間髪入れずに、通信士が報告する。


「各国より報告! 偵察機、潜水艇による接近を試みるも、正体不明のエネルギーシールドに阻まれ、接近不能!」


「エネルギーシールドだと? まるでSF映画じゃないか…」


上官は吐き捨てた。


その日の午後から、怪奇は加速した。

あの小さな芽は、信じがたい速度で成長を始めたのだ。数時間で数メートル、みるみるうちに枝葉を広げていく様は、まるで早送りの映像を見ているかのようだった。隊員たちが、動揺と畏怖の表情で艦橋の窓に集まってくる。三浦 健は、その異常な成長速度を、冷静に、しかし鳥肌が立つのを抑えきれずに、航海日誌に克明に記録し続けた。「我々は何を相手にしているんだ」、という問いだけが、彼の頭の中を支配していた。


2017年11月5日、夜明け。

徹夜で監視を続けていた三浦 健は、目の前の光景に絶句した。艦橋にいた他の隊員たちも、誰一人として言葉を発することができず、ただ呆然と立ち尽くしている。

夜の間に、あの植物は、天を突くほどの「大木」へと変貌を遂げていた。直径は数キロメートルにも及び、その梢は雲を突き抜けている。


若い隊員の掠れた声が、静寂を破った。


「うそだろ…一晩で…」


すぐさま、レーダー担当の隊員が、悲鳴に近い声を上げる。


「艦長! レーダーに巨大な質量反応! 新たな島が出現しました!」


大木の根は、海中に深く広く張り巡らされ、周囲の海水を急速に隆起させていた。新たな陸地が、目の前で刻一刻と生まれていく。


通信士も、次々と入る情報に混乱していた。


「世界中のメディアが、この構造物を世界樹と仮称! 呼称は世界樹に統一されつつあります!」


その圧倒的な存在感を前に、三浦 健はもはや恐怖ではなく、神話的な存在に対する畏敬の念すら感じ始めていた。地球の法則が、物理的な常識が、目の前で根底から書き換えられてしまったのだ。


「我々は…神の庭にでも迷い込んでしまったのか…」


誰かが呟いたその言葉は、艦橋にいた全員の思いを代弁していた。


その日の午前、艦橋内は新たな警戒態勢への移行で慌ただしくなった。各国軍は、この新たに出現した島と世界樹を、より厳重に包囲している。


上官の命令が、艦内に響き渡る。


「本艦はこれより、世界樹の南側海域に移動。長期監視任務に就く。各員、心してかかれ」


三浦 健は、再び双眼鏡を手に、世界樹の威容を眺めた。巨大な樹の幹、生い茂る未知の植物、そして新たに生まれた大地。

これが世界の終わりではない。だが、自分たちが知っていた世界は、もうどこにもない。全く新しい世界の始まりなのだと、彼は予感していた。


この日、地球に新たな創世記が始まった。人類はまだ知らない。この巨大な樹が、やがて神々と悪魔を呼び覚まし、地球そのものを闘争の舞台へと変えることを。


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