オウムアムア・クロニクル ~ダンジョン配信のある世界ができるまで~
タハノア
序章:来訪者 - The Visitor
第一話:静謐の終焉
2017年10月14日
天文学者・藤原 拓海
自宅兼研究室
その夜は、普段と何ら変わりのない、静謐な秋の夜であった。
都心から少し離れた郊外の丘に立つ、藤原拓海の自宅兼研究室。書斎の窓の外では、虫の音が控えめに響き、澄んだ夜空には無数の星々が瞬いていた。
書斎の中は、複数のモニターが放つ青白い光と、サーバーの低いハミング音、そして壁一面を埋め尽くす専門書の背表紙が作る静寂に満たされていた。天文学者である藤原拓海は、30代も後半に差し掛かり、その人生のほとんどを、この星空の真理を探究することに捧げてきた男である。
傍らのマグカップからは、淹れたてのコーヒーの香ばしい湯気が立ち上っていた。彼は高性能望遠鏡に連動したメインモニターを、いつものように静かに見つめていた。彼の専門は小惑星や彗星の軌道計算であり、この夜もまた、遠い宇宙の片隅を漂う小天体の、単調ながらも緻密な観測というルーティンワークをこなしていた。
モニターには、星図と、天体の位置情報を示す無数の数値が、規則正しく更新されていく。彼は時折、微調整のためにコントローラーを操作する。カチ、カチ、という乾いた操作音だけが、心地よいリズムで書斎に響いていた。それは、彼が愛する穏やかな時間だった。
異変は、何の予兆もなく、彼の視界の片隅で始まった。
太陽系外から飛来した、史上初の恒星間天体として観測史上の一大トピックとなっていた、葉巻型の天体オウムアムア。その軌道データを示すグラフの曲線が、予測値から、ほんの僅かに逸脱している。
拓海は眉をひそめた。この程度の誤差は、大気の揺らぎやセンサーのノイズで日常的に起こりうる。彼はコントローラーを操作し、オウムアムアのデータを拡大表示した。やはり、予測された軌道から僅かに、しかし明確に外れている。
「ノイズか…またセンサーの感度が落ちてきたかな」
彼は小さくため息をつき、手慣れた様子でキーボードを操作する。システムのキャリブレーションを開始。モニターに「SYSTEM CALIBRATION IN PROGRESS...」の無機質な文字が流れる。拓海はコーヒーを一口含み、深く背もたれに寄りかかった。いつものトラブル。日常の延長線上にある、取るに足らないはずの出来事。彼はまだ、そう信じていた。
キャリブレーションが完了し、拓海は再びモニターに向き直る。
しかし、彼の表情から、ゆっくりと余裕が消えていった。オウムアムアの軌道を示す数値は、正常に戻るどころか、さらに異常な値を示し始めていたのだ。減速を示すカーブが、明らかに、物理的にありえないほど急激になっている。
「なんだ…これは…?」
拓海はキーボードを叩き、軌道を再計算するプログラムを走らせた。モニター上で、目まぐるしく数式が組み上がり、検証されていく。数秒が、永遠のように感じられた。
やがて、弾き出された一つの予測軌道が、赤いラインとなって星図の上に描かれた。
拓海は、椅子から立ち上がった。信じられない、という表情でモニターを凝視する。
その赤いラインは、地球へと、それも太平洋上の一点へと、まるで狙いを定めたかのように突き刺さる軌道を描いていた。それは、重力に引かれて落ちる落下ではない。明らかに、強力な逆噴射でもかけたかのような、制御された降下だった。
「ありえない…こんな軌道、自然現象ではありえない! 何かの…意図があるのか?」
彼の心臓が、ドク、ドクと大きく脈打つ。科学者としての長年の経験が、これが「ありえない」現象であることを叫んでいた。恐怖が背筋を駆け上る。しかし、それ以上に、歴史の、いや、地球という惑星の運命が変わる瞬間に立ち会っているという、凄まじい興奮が彼の全身を駆け巡った。
拓海の動きは、突如として慌ただしくなった。この驚異的な事実を、一刻も早く世界に伝えなければならない。彼はスマートフォンを手に取り、国内外の研究機関やNASAの知人へと、立て続けに電話をかけた。
しかし、何度かけても耳に届くのは「プー、プー」という無機質な話中音か、「ただいま、電波が大変混み合っております」という自動音声だけだった。
「くそっ、繋がらない!」
彼はPCに向かい、メールや暗号化されたチャットツールで観測データを送ろうと試みる。だが、インターネット回線も、見たこともないほどの異常なトラフィックで完全に麻痺していた。世界中の天文学者が、彼と同じ現象を観測し、パニックが始まっているのだと、彼は悟った。
その時、隣のリビングから、つけっぱなしになっていたテレビの音が、彼の耳に届いた。
テレビのアナウンサーが、震えるような声で伝えている。
「…緊急速報です。現在、太平洋上で未確認飛行物体が急減速し、着水する模様です。各国軍が周辺海域に急行しております…」
拓海はハッとしてリビングへ走った。
テレビ画面には、夜間カメラが捉えた、光り輝く細長い物体が、まさに海面へと降下していく映像が映し出されていた。彼が望遠鏡で観測しているものと、全く同じ光景。SF映画が、現実になった瞬間だった。
「論文どころじゃない…これは、人類の危機だ!」
焦燥感に駆られ、彼は再び書斎に戻り、必死にキーボードを叩き続ける。せめて、このデータをどこかにバックアップしなければ。しかし、その努力は虚しく、彼の研究室は、完全に外部から孤立した。
全てのモニターが、一斉に「NO SIGNAL」の冷たい表示に変わる。
しん、と、死のような静寂が書斎を支配した。
その直後だった。
ドン…!
遠くで、しかし地底の奥深くから響くような、鈍い衝撃音が鳴り響いた。家が、ミシミシと不気味に揺れる。
拓海は窓の外を見た。夜空が、まるで終末を描いた絵画のように、不気味な赤色に染まっている。遠くから、無数のサイレンの音だけが聞こえてくる。街は、停電と通信障害で、むしろ不気味なほど静まり返っていた。
彼は、自らの発見が人類にとってどれほど重要かを悟り、最後の力を振り絞った。オフライン状態のPCに、この現象の記録と、自身の見解を打ち込み続ける。未来の誰かが、この情報を必要とするかもしれない。その一心で。
「これは降下ではない。明確な意志を持った『来訪』だ。彼らは…」
彼が、次の言葉を打ち込もうとした、その瞬間。
パチン。
書斎の電気が、全て消えた。
モニターの光も、サーバーのランプも、全て。彼の研究室だけが、ピンポイントで電源を落とされたかのように、完全な闇に包まれた。
「停電…か? いや、バックアップ電源まで…」
闇に目が慣れてきた彼の目の前。
PCのモニターの、電源が落ちて真っ黒になったはずの画面に、内側から、黒いモヤが滲み出すように現れた。
モヤは、モニターの中から、まるで彼を嘲笑うかのように、ゆっくりと蠢いている。
拓海は、金縛りにあったように動けなかった。
科学では説明できない、純粋な恐怖が、彼の体を支配する。
黒いモヤは、モニターのガラスを突き破るように、音もなく彼の目の前へと伸びてきた。
彼の視界が、絶対的な闇に覆われていく。
声にならない叫びが、彼の喉の奥で凍りついた。
彼の意識は、永遠に途絶えた。
後日、彼の研究室は、荒らされた形跡もなく、ただ静かに主の帰りを待っているかのように発見された。藤原拓海の死因は「急性心不全」。事件性はないと処理された。
しかし、彼のPCは、全てのデータが、まるで強力な磁気嵐にでもあったかのように、完全に消去されていた。
ただ一点、奇跡的に復元できたデータのかけらに、乱れた文字で「来訪」という言葉だけが残されていたことを、まだ誰も知らない。
2017年10月14日、天文学者・藤原拓海は、人類の未来を左右する最初の目撃者として、その真実と共に「沈黙」させられた。しかし、消されたはずの彼の警告は、やがて、新しい世界の夜明けに、一条の光をもたらすことになるだろう。
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