第2話 円環湖

「うゔえっ……!」


 波をかき分ける音の中に、ライオの嘔吐の声が響いた。


「うわっ! シーさん! ライオがまた吐いたっ!」

「ええっ!? またですか!? 大丈夫ですかライオさん!?」

「だいじょぶじゃなっ……おぐぷっ、ええ゛っ……!」


 場所は塔を囲む湖、その名を『円環湖』。その名の通り、天涯の塔を囲む円のようにできていることから名づけられた。

 塔のある陸地へと向かう船の中で、ライオは見事に人生初の船酔いを発動していた。


「ふねっ、ごんなっ、ゔえっ、きもじわる、って、おもわなかっ……お゛ええっ!」

「うわーっ! このままじゃライオが塔にたどり着く前に船酔いで死ぬっ! シーさんどうにかしてっ!」

「ええっ、私にいわれましてもおお……!」


 船の大きさは、ちょうど今回ライセンスを取得した三十二人の子供たちが、ぴったり全員乗ることのできる動力船だった。

 動力船と言うのはその名の通り、動力のついた船のことである。ライオとエナの乗るこの船は、地中燃料を用いたエンジンを動かすことで、スクリューを回転させて動力を得る、かなり一般的なタイプの船だった。


「と、とりあえず酔い止めを飲んでください。ほら、お水です。今朝井戸で組んできた冷たいやつです。おいしいですよ」

「ごめっ、シーざっ、薬飲んだら吐くっ」

「じゃっ、じゃあどうしたらいいんですかぁ!?」

「あ、だから酔い止めって乗る前に飲むんだ……」


 ライオが吐いて、女性職員があたふたしている横で、エナは妙な納得感を感じてうなずいていた。


「ねっ、これっ、あとなんふんっ、ぐおえぷっ」

「あ、あと二十分はありますっ……!」

「塔につく前に死ぬ……っおえっ」

「落ち着いてくださいっ、塔につく前に死なれたら引率者である私の沽券にかかわりますっ……!」

「頑張れ、ライオ。死んだら塔の中に骨はばらまいとくから」


 エナは腕を組んで仁王立ちをして、ライオに対して自信たっぷりに言った。


「なでっ、お前はそんな平気なんだよっ、うっ」

「わたし、漁村の生まれですから」


 えっへん、とエナは腕を組んだまま胸を張った。


「くそっ、こんなところで、エナに負けるなんてっ、うっ、おろろろろ……」

「ああぁっ、ライオさああああんっ……!」


 女性職員の悲惨な響きが木霊した。

 そろそろ、ライオの痴態を見るのも飽きたな……。

 そう思ったエナは、吐いているライオではなく、その向こうの海――吐瀉物を飲み込んでくれている湖に目を向けた。

 一面の、湖だ。青く空の光を跳ね返し、進行方向の方には白い太陽が照っているのが見える。そして、その向こうにはそびえる山や丘たち。それはどれも緑に覆われていて、時たまその頂上に大きな建物が見えたりする。

 先頭の方を見てみれば、そこに見えるのは巨大な塔。

 スィース共同住宅にいた頃より、数倍増しの大きさの天涯の塔が、そこには見えていた。


「でっっっっっか……!」


 首が痛い……! エナはそう思った。

 もう丘よりも、塔のある陸地のが近い。もう塔との距離は二十キロもないだろう。

 いや、逆に言えば二十キロはあるはずだ。それなのに、もう限界まで首を上に向けなければ、その全体像をつかみきれない。

 横幅はもっとだ。塔の横幅は五十キロ近くある。その全体像がもう見えない。半分が、船の船体に隠れてしまっている。今、エナたちがいる場所は船上ではなく、中から外を覗き見れる場所だった。

 夜の時とは違って、今の天涯の塔は、青色と言うよりかは黒に近い鈍色の光沢を持った塔だった。


「やっぱり雲あるんだ……」


 そして昨日見たのと同じように、その三階層目をぐるりと囲むように、雲が出来上がっていた。

 その雲をよく見れば、それがそうと分かるほどに、ゆっくりとだが形を変えていっているのが分かる。


 ――確か、第三階層の高さって、本来雲ができる場所の限界高度よりも上にあるんだっけ。だから、できた雲はその傍から消えていっちゃう……。


 なにからなにまで、不思議な塔。

 肉眼では見えないけど、第五階層からは塔を伝うようにして水が下へと流れて言っているのだという。それが第三階層にたどり着いた時、そこにある熱源によって加熱されて、水が急激に蒸発することによって、一時的な雲を形作っている……。

 そもそもなんで第五階層から水が出てきているのか、そこがどうなっているのか、水の水源はいったいどこなのか……?


 それは、誰にもわからなかった。

 今まで人類は――その塔に住んでいた時代の人以外の、今までの人類は、まだそこへとたどり着けていないから。

 正確には、まだ第三階層にすら満足にたどり着けていない。

 人類が今まで足を踏み入れ、探検と呼べるほど満足に探検でき、どんな場所かわかっている場所は、第一階層と第二階層のみ。


 それ以上は、本当に未知だ。しかしもしかしたら、誰かはたどり着いていたのかもしれない。しかし今まで、そこから帰ってきた人は一人もいない。


「うぐおぇっ……!」


 まだ吐いてる……。


 気持ちのいい思索から最悪な形式で覚めさせられたエナは、不満げにライオをにらんだ。

 その後しばらく……船の旅程の最後の方、ライオが胃液を限界まで吐き終わって、船の向こう側で縮こまって憔悴しきるまで、嘔吐の声は続いた。




「つ、ついた……死ぬかと思った……うう、まだ気持ちわるっ……」


 船が、陸地に到着した。

 ライオは崩れるように港の地面に倒れこみ、まだ三半規管がぐるぐるする感覚に悩まされていた。


「ライオさん、水飲んでください、水」

「の、飲んだよ、これ以上飲むと死にそう……目の前まだぐるぐるするっ」

「たぶんそれ脱水症状出てますよっ」

「ふーっ、きもちいい旅だったーっ! 久々の船旅っ!」


 そんなライオの前に、ユナが仁王立ちして腕を組み、快活な声を上げた。


「くっ、おい、お前煽ってんだろっ」


 膝を地面に立て、何とか立ち上がろうとしながら、ライオはエナをにらみつけた。


「むっ! 失礼な! 人の不幸を前にわざと幸を口にするほどの人間だと思ってるんですかっ! 漁村の生まれですよ、船好きなんだよ!」

「見えるから言ってんだろ……うえっ、きもち悪ッ……! 船から降りたのに……」

「その気持ち悪いって、もしかしてわたしへの悪口だったりしないよね?」


 ぎゅっ、とエナの眉にしわが寄った。


「あ!? んなわけねぇだろ! 誰がそんなことするかよ」

「そう見えるからいってんでしょうがっ!」

「ああっ!?」

「あっ、ちょっとちょっと二人とも! 喧嘩は駄目です喧嘩は! 港に着いたんですよ、礼儀正しくしましょうっ!」


 またもぶつかりそうな二人の間に、女性職員は何とか割って入った。


「これから一緒に冒険をする仲なんですから、ね? 仲良くしましょう?」

「んーーーーーー!」

「ゔ――――――っ! おえっ」

「ほんと頼みますよお二人とも……っ! あっ、皆さんすみません、こっちでーす! 二人とも行きますよっ!」


 同行する合計三十二人の子供たち、それを(なんとか)先導しながら、女性職員は歩いて行った。

 港は湖の外と塔の陸地をつなぐ、需要の絶えない場所だ。そのためかなり大きく、さらに多種多様な船が泊っている。

 動力船だけではない。帆のついた漁船、巨大な輸送船、観光客の乗る豪華客船、その他もろもろ。

 もちろん人もたくさんいる。

 子供たちがその中で迷子にならないよう、羊をまとめる牧羊犬のごとく、女職員は全員を(やっとのことで)港から出した。


「はあっはあ、三十二対一、つら……」


 膝に手を当てて、女職員は何とか息を整える。

 そんな彼女に話しかける声があった。


「おっ、シーズ、ようやく来たか!」

「あっ、ご主人……!」


 その声の主に向けて、彼女は顔を上げた。

 短い袖の服に筋肉質な体、タオルを首にかけた背の高い男がそこに立っていた。


「待ってたぞ、シーズ。宿の準備はもう終わってるぜ」

「シーさん、この人だれ?」


 子供たちの一人が、シーズに向かって聞いた。


「あ、この人は今回泊まる宿屋のご主人さんです。デルトさんって言うんですよ」

「へー。宿屋のオーナーにしては筋肉質な人だな」


 また誰かがそう呟いた。


「へっ!? そっ、そんなこと言っちゃだめですよっ、す、すみませんデルトさんっ!」


 すると、デルトは胸を反らせ、豪快に笑った。


「がっはっはっはっ! 相変わらずの遠足ぶりだな! もう新しい集団の来客は十年前からずっとこんな調子だ、気にすんな! ほら行くぞガキども! 筋肉質な主人が案内してやる!」

「「「わーい!」」」

「あ、ちょっとっ……!」


 子供たちはわーっと楽しそうな声を上げてシーズのそばを離れて、そのままデルトの後ろについて行った。


「ま、待ってくださいっ……!」

「うわ、すっげ……!」

「ん?」


 自分の後ろから声がして、シーズは脚止めた。


「ライオくん? どうしたの?」

「いや、上……」


 ライオは上を見上げていた。ただそうして、ほとんど微動だにせずに。

 その視線の先を、シーズも追う。


「なんか、さっきから暗いって思ってたんだけど……」


 そういうライオの視線には、巨大な塔、そしてその影があった。

 今彼らがいる場所は、塔によって生み出された巨大な影の中だった。


「太陽、向こう側か……てか、壁みたい……」


 ライオはまるで夢を見ているかのように呟いた。

 もはや、ここからは塔の丸みが分からないほどになっていた。

 目の前に見えるのは、黒鈍色の巨大な壁。

 ただ、頭を思いっきり上げて上を見ることで、ようやくそれが円錐台の塔だと認識することができる。


「やっっっば………!!」


 ライオの口角は、自然に上がっていた。


 ――そういえば、ライオさん、ずっと吐いてて塔見れてなかったんでした……。


 シーズは若干呆れ気味にそう思った。


 ――私も最初の方は、こんな感じのリアクションしてましたっけ……。


 そう思いながらシーズも、自分が自然と微笑んでいることに気が付いた。


「ライオさん、塔ならここに居る限り、ずっと見れますよ。ほら、行きましょう」

「う、うん。すご……」

「ほら、エナさんも」

「はーい」


 ライオとその近くに待機していたエナを呼んで、シーズは筋肉質な男が誘導する子供たちの方へと歩いて行った。




キャラクター


シーズ・ゲクサ 女性 冒険家協会職員 十九歳(十六歳に就職)

目が悪いため眼鏡をかけている。年々低年齢化する冒険家協会の冒険家たちの取り扱いに毎日四苦八苦している。

物静かでひたむきな性格だが、恋愛とかしたいなーと思っている。しかし協会の環境と焦りがあいまって結構錯乱しかけている。子供と三十歳以上しかいない……。どうなってんだこの職場。

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