第4話 聖女の噂


妹の愛美が「満願成就の旅」から帰ってきて、数日が過ぎた。


彼女が持ち帰った小さな陶器の犬は、今、母のベッドサイドにちょこんと置かれている。母はそれを「可愛い守り神ね」と言って、日に何度も優しく撫でていた。その姿を見ていると、非科学的だと分かっていても、この小さな守り神が本当に母を守ってくれるような気がしてくるから不思議だ。


そんなある日の昼下がり、スマートフォンのメッセージアプリが友人からの着信を告げた。高校時代からの友人、由美からだった。



美羽みう、来週あたり、少し時間作れないかな。 気分転換にお茶でもどうかと思って……』


その誘いに、私は一瞬、返事をためらった。母のそばを離れることに、罪悪感にも似た不安がよぎる。しかし、メッセージは続いた。



『もちろん、美羽の都合がつく時でいいから。でも、あんまり根を詰めすぎると、あなたまで倒れちゃうわよ。お母様のためにも、少しは息抜きしなきゃ』


由美の言う通りだった。鏡に映る自分の顔には、隈がうっすらと浮かんでいる。私が倒れてしまっては、元も子もない。メッセージのやりとりだけで私の様子を察してくれたのだ。自覚のなかった自分よりも今の状況を把握しているように感じる。おせっかいな……良い友人だ。


「……分かったわ。一時間くらいなら」


そう返信すると、すぐに『やったぜ』と渋いおじさんがサムズアップしているスタンプと共に、カフェの場所が送られてきた。こんなスタンプ、どこから見つけてくるのだろうか。

指定されたカフェのことを検索してみる。隠れ家的なカフェのようだ。


どこから見つけてきたのだろうか。



――――


約束の日、私は看護師さんに母のことを頼み、足早に病院を後にした。看護師さんにも恵まれている。親身になって相談に乗ってくれるのだ。今日も話を聞いた看護師さん総出でお見送りをしてくれた。息抜きをすべきだと感じていたのは友人だけではなかったようだ。


……しかし、恥ずかしい。


久しぶりに袖を通したお気に入りのワンピースが、少しだけよそよそしく感じる。


由美が指定したカフェは、繁華街の喧騒から離れた、静かな住宅地にひっそりと佇んでいた。蔦の絡まるレンガの外壁に、小さな木製の看板。知らなければ通り過ぎてしまいそうな、まさに「隠れ家」だ。


扉を開けると、カラン、と心地よいベルの音が鳴った。店内はアンティーク調の家具で統一され、落ち着いたジャズが流れている。そして、私を迎えてくれたのは、古風な濃紺のロングスカートに、真っ白なエプロンを身に着けたウェイトレスさんだった。 そのクラシカルなメイド姿は、お店の雰囲気に完璧に溶け込んでいる。


「いらっしゃいませ。佐藤美羽様でいらっしゃいますね。奥の個室でお連れ様がお待ちです」


このカフェには個室があるらしい。有名人がお忍びで来るには最適ではないだろうか。

丁寧な案内に従って奥へ進むと、そこには由美ともう一人、同じく高校時代からの友人である莉子の笑顔があった。


「美羽、久しぶり」


「来てくれてよかったぁ」


二人の元気な声に、張り詰めていた気持ちがふっと緩むのを感じた。



「ごめんね、急に呼び出したりして」


「ううん、ありがとう。少し、息が詰まってたから」


運ばれてきた紅茶のカップを手に取ると、その温かさがじんわりと指先に伝わった。


友人たちは母の容体を心配しつつも、努めて明るい話題を選んでくれた。会社の愚痴や、最近流行っているドラマの話。そのどれもが、今の私には眩しく、そして懐かしい。そして、その温かな気遣いが胸に広がる。



「でも、本当に良かったわね。美羽の会社、すごく理解があって」


「ええ、本当に……。上司にも、同僚にも恵まれてる」


「例の、ご令嬢様のおかげなんでしょ 美人でスタイル抜群で、性格も女神だっていう」


莉子が目を輝かせながら言う。私は苦笑しながら頷いた。



「らしいわね。直接お会いしたことはないけど、本当に感謝してる」


「あら、嫉妬はしてない様子ね。残念だわ」


「嫉妬って何よ。そんな恩ある女神様に嫉妬する理由なんてないわよ」


「だって女神様の事、教えてくれた同僚さんって良い感じの関係じゃないのぉ」


莉子が私の顔をのぞき込むように探ってくる。



「そ、そんな関係じゃないわよ。単に業務上良く話をするかなって程度。ランチに行ったり、たまに呑みに行ったりしたのは同僚だったら普通よね。まあ、出張に行けば、毎回お土産を献上してくれるから仲が良いとは思う……でもその程度よ。だって女神様とは言え、私に女性の話を熱く語るのよ。ぜんぜん脈なしでしょ」


一気に早口で話した後、しまったと感じた。ふたりの目が明らかに笑っている。


「さっきまで美羽が同僚さんの話していたとき、ずっと口角が上がってたわよ。無自覚であんな顔させる男がいるなんてねぇ」


「しっかりと恋バナとして堪能させて頂きました。ご馳走様」


これ以上否定しても話を聞いてくれないだろうと判断した。それに私が自ら墓穴を掘りそうな気がする。このふたりのネットワークは光よりも早い。今日中に仲間内では周知の事実となるだろう。心の中で大きなため息をつくのであった。


――――


恋バナを回避していたら、今度は妹の愛美めぐみの話になった。



「愛美ちゃんは元気してるかな。 最近、全国の神社仏閣を巡ってるって聞いたけど」


「ええ、この間も長野まで行って、御朱印帳が『満願まんがん』になったって大喜びしてたわ」


私はスマートフォンを取り出し、愛美が送ってきた陶器の犬の写真を見せた。



「母が犬好きだからって。病魔を退治してもらうんだって息巻いてるの」


その健気さを愛おしく語る私に 、由美と莉子は「優しい妹さんね」と微笑んだ。妹が褒められるのは自分が褒められる以上に嬉しい。


その「神頼み」という言葉から、莉子が何かを思い出したようにポンと手を打った。



「あ、神頼みといえばさ、このカフェも、最近ちょっとした噂があるんだよ」


「噂……」


「そう。『恋愛の聖女ちゃん』に会える場所、ってね」


莉子によると、このカフェには時々、ものすごく恋愛相談の得意な女子中学生が現れるらしい。その子に祈ってもらうと、どんな恋でも成就すると評判なのだとか。

恋愛相談が得意な中学生と言われても人物像が想像できない。最近の中学生は私の時代とは違うのだろう。


「美羽も近いうちにお世話になるかもしれないわよ」


からかうように笑う莉子に、私はあさっての方向を向いたまま紅茶を口にする。


すると、それまで静かに話を聞いていた由美が、ふと真剣な面持ちで口を開いた。


「……聖女、といえば、私も一つ、噂を聞いたことがあるわ」


その場違いなほど真剣な声に、私と莉子は顔を見合わせる。


「恋愛の聖女ちゃんの他にもね、もう一人、いるらしいの。『世界樹の聖女さま』って呼ばれてる人が」


「世界樹……って」


「ええ。その聖女さまは、恋愛相談じゃない。もっと……切実な願いを聞き届けてくれるって。その力は『心と身体を癒やす』力だって言われているわ」


心と、身体を、癒やす。

その言葉が、私の胸に重い石のように落ちた。


「何よそれ。まるでラノベの設定みたいじゃない」


私は努めて明るく、笑い飛ばそうとした。馬鹿げている。そんな非科学的な話、あるわけがない。


けれど、その笑い声は、自分でも分かるほど乾いて、空々しく響いた。


由美は、私の顔をじっと見つめていた。私の微妙な表情の変化から、その心の揺らぎを正確に読み取ったのだろう。


「眉唾物の、ただの都市伝説かもしれない」


由美は静かに言った。

「でもね、美羽。もし、本当にそんな人がいるんだとしたら……」


いるはずがない。


分かっている。頭では、ちゃんと分かっているのだ。

けれど、心のどこかで叫ぶ声がする。もし、万が一、億が一の確率でも、そんな奇跡が存在するのなら。

わらにもすがりたい、と願ったあの夜の、暗闇の中の祈り。

それは、こういうことだったのではないか。


「……由美」


か細く、自分のものではないような声が出た。


「その人……その聖女さまは、どこに行けば会えるの」


私のその問いに、由美と莉子は顔を見合わせた。そして、まるで示し合わせたかのように、強く頷いた。


「分からない。まだ、詳しいことは何も……」


由美は私の手を、ぎゅっと握りしめた。


「でも、探しましょう。絶対に探し出すわ。美羽、あなたは一人じゃないんだから」


その力強い言葉に、私は何も返すことができなかった。ただ、友人たちの優しさと、ありえないと分かっているはずの「聖女」という存在に、どうしようもなく縋りつきたくなっている自分がいることだけを、自覚していた。


それは、あまりにもか細く弱く、非現実的な…… でも希望の光だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る