第3話 陽だまりの影
消毒液の匂いが、すっかり日常の香りになってしまった。
ツン、と鼻をつくこの匂いに包まれて、私はゆっくりと目を覚ます。病室の窓から差し込む朝の光が、リノリウムの床を白く照らし出していた。規則正しく時を刻む心電図モニターの電子音と、遠くから微かに聞こえるナースコールの響き。それが、私の目覚まし代わりだ。
身体を起こし、凝り固まった肩をそっと回す。簡易ベッドのスプリングは硬く、毎朝、身体の節々が軋むような痛みを訴える。けれど、そんなことは些細なことだった。
私の視線は、窓際のベッドで眠る母へと注がれる。穏やかに上下する胸、静かな寝息。眠っている時の母は、病気であることが嘘のように安らかに見えた。白髪が混じるようになった髪をそっと撫でると、くすぐったそうに少しだけ身じろぎする。七年前に父を事故で亡くしてから、私たち姉妹を女手一つで育ててくれた、太陽のような母。その輝きが、今は病という分厚い雲に覆われている。
「……ん……みう……」
「おはよう、お母さん。よく眠れた」
「ええ……。あなたこそ、ちゃんと眠れてるの そんな硬いベッドじゃ、身体が痛くなるでしょう」
目を覚ますなり、母は私を気遣う。いつもそうだ。一番辛くて不安なはずなのに、私たちのことばかり心配する。
「大丈夫よ。私、どこでも眠れるのが取り柄だから。それより、顔色がいいわ。今日は調子がいいんじゃない」
そう言って微笑みかけると、母は力なく笑い返した。その笑顔に、以前のような力強さがないことが、私の胸をナイフのように抉る。
市の定期健診で癌が見つかり、即時入院となってから二ヶ月 。これまで大きな病気をしたことのなかった母にとって、本格的な入院生活は初めてのことだった 。そして、一ヶ月前に行われた一度目の開腹手術は、失敗に終わった。病巣は予想以上に進行しており、すべてを切除することができなかったのだ。
今月末に、二度目の手術が予定されている。それが、最後の望み。もし次も駄目だったなら、私たちは「緩和病棟への移動」という選択を迫られることになる 。その選択が何を意味するのか。充分分かっているつもりだ。
母の朝食の配膳を手伝い、食後の薬を準備する。そんな当たり前の日常を一つ一つ丁寧にこなしながら、私は必死に平静を装っていた。私が不安な顔をすれば、母はもっと不安になる。だから、私は大丈夫でなければならない。しっかり者の、長女でなければ。
母が再びうとうとと微睡み始めたのを見計らい、私は病室の隅に置かせてもらっている小さな折り畳みデスクに向かった。ノートパソコンを開くと、見慣れた会社のロゴが画面に表示される。
私、
母の病状を上司に相談したところ、すぐに社長まで話が伝わり、私は勤務時間の融通が利きやすい部署へと異動させてもらったのだ 。出社義務も大幅に緩和され、こうして病室からオンラインで勤務することも許可された 。
この異例の措置には、裏話がある。仲の良い同僚の男性社員が、こっそり教えてくれた。
『佐藤さん、ラッキーだったな。社外取締役の娘さんが、社員の待遇改善にすごく熱心なんだ。今回の佐藤さんの件も、そのお嬢様が「ご家族が大変な時に会社が支えるのは当然です」って強くプッシュしてくれたらしいぞ』
その心優しいご令嬢と直接お会いしたことはもちろんない。けれど、面識のある男性社員たちが語るその人物像は、まるで物語の登場人物のようだった。誰もが息を呑むほどの美人で、モデル顔負けのスタイル、性格は天使のように優しい。そして、なぜか皆が口を揃えて熱っぽく力説するのが、
『なによりも、あの爆乳……いや、豊満な胸は、まさに女神の慈愛の象徴だ』
ということだった 。
呆れた。男ってそんな所ばかりに目が行くのだろうか。狂信的なまでの語り口には正直少し引いてしまったが、その女神様のおかげで私が母のそばにいられるのは事実だ。いつかお会いする機会があれば、きちんとお礼を伝えよう。画面の隅に表示されるいくつもの業務通知を処理しながら、私は顔も知らない恩人のことをぼんやりと考えていた。
カタカタとキーボードを叩く音だけが、静かな病室に響く。
ふと、指の動きを止め、私はベッドの母に視線を戻した。あの頃、父が突然いなくなってしまった日も、母はこうして私たちのそばにいてくれた。悲しみに泣き崩れる私と愛美を、震える腕で力いっぱい抱きしめて、「大丈夫、お母さんがいるから」と、そう言ってくれたのだ 。
今度は、私たちが母を支える番だ。
その時、スマートフォンの画面が点灯し、軽やかな通知音を立てた。妹の
メッセージアプリを開くと、一枚の写真が送られてきていた。緑深い参道を背景に、陶器でできた小さな犬のお守りが、ちょこんと写っている。
『満願達成 これで鬼退治の準備は万端だよ』
文末には、元気いっぱいの絵文字がいくつも並んでいた。
私は思わず、ふっと笑みを漏らした。馬鹿だな、愛美は。神頼みで病気が治るなら、医者も薬もいらない。そう思う冷静な自分がいる一方で、妹のその行動が、どうしようもなく愛おしく、そしてありがたかった。
私が現実と向き合い、母の身の回りの世話や煩雑な手続きに奔走する。そして、愛美が非現実的な「祈り」を担う。私たちは、いつの間にかそんな風に役割分担をしていたのかもしれない。
愛美の神頼みは努力だ。全国の神様について調べ、かなり遠方まで脚を運んでいる。私だけでは手の届かない何かをつかみ取ろうとしている。
『ありがとう。お母さん、喜ぶわ』
『でしょ このわんこさん、すっごく強いんだから。あ、お姉ちゃんの大好きなリンゴ、お土産に買おうと思ったんだけど、まだ時期じゃなかった。残念』
『気持ちだけで嬉しいわよ。気を付けて帰ってきてね』
簡単なメッセージのやり取り。けれど、その短い言葉の奥にある妹の優しさが、ささくれ立っていた私の心をじんわりと温めてくれた。
そうだ、私は一人じゃない。そして私たちには、守るべき太陽がいる。
――――
夜になり、病棟の消灯時間が訪れた。
簡易ベッドに横になり、無機質な天井をぼんやりと見つめる。母の穏やかな寝息だけが聞こえるこの静寂の時間が、私は一番苦手だった。日中の喧騒が嘘のように静まり返ると、心の奥底に押し込めていた不安が、まるで黒い染みのようにじわじわと広がってくるのだ。
今月末の手術。
もし、次も駄目だったら…… もし、母がいなくなってしまったら……
その想像は、七年前に父を失った時の、あのどうしようもない無力感と絶望を呼び覚ます。もう二度と、あんな想いはしたくない。大切な家族を、これ以上失いたくはない。
付きっきりの看病。会社への報告と調整。そして、妹の神頼み。
できることは、すべてやっているはずだ。
それでも、何かが足りない気がしてならない。科学や現実的な努力では、決して埋めることのできない、巨大な不安の穴。
その穴を埋めるためには、何か、もっと確かな奇跡のようなものが……。
――わらにも、すがりたい。
心の底から湧き上がってきたその切実な願いを、私は暗闇の中で、ただ一人、噛みしめていた。
それが、数日後に友人から聞かされることになる「聖女」の噂へと繋がる、ほんの序章に過ぎないことなど、この時の私はまだ知る由もなかった。
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