第2話 満願の祈り


週の真ん中、水曜日。


私、佐藤愛美さとうめぐみは有給休暇を使い、一人、高速道路をひた走っていた。

カーステレオから流れる軽快なポップスが、まるで私の気持ちを応援してくれているようだ、なんて思うのは少し無理があるかもしれない。努めて明るい曲を選んだのは、沈み込みそうな心を奮い立たせるため。助手席には、万が一にも道に迷った時のための大きな紙の地図と、私のお守り代わりの存在がちょこんと座っている。


「ねえ、タヌキくん。本当にこの道で合ってるのかな」


返事の代わりに、つぶらな瞳がこちらを見つめ返す。お気に入りの絵本に出てくる、ぽっこりお腹が愛らしいタヌキのぬいぐるみ。姉の美羽みうはこの可愛さが分からないと首を傾げるけれど、私にとっては心を落ち着かせてくれる大切な相棒だ。


本当は、こんな場所にイケメンの彼氏でも座っていてくれたら最高だったのに。けれど、生憎そんな相手はいない。今年で二十七歳、独身。文房具を扱う商社に勤める、ごく普通のOLだ。……OL、オフィスのレディ。何だか昭和の香りがする呼び名だけれど、まあレディと言われて悪い気はしない。


そんな雑念で思考を散らしながら、私は固くハンドルを握りしめる。

母が倒れ、緊急入院してから二ヶ月。一度目の手術は、うまくいかなかった。病巣は思った以上に根深く、すべてを取り除くことができなかったのだ。そして今月末、二度目の、そしておそらくは最後の望みとなる手術が行われる。もし、これでも駄目だったなら……医師から告げられた「緩和病棟かんわびょうとう」という言葉が、不吉な響きとなって頭から離れない。


何か、私にできることはないか。病院で付きっきりの看病をしている姉の負担を少しでも軽くすることはできないか。そう考えあぐねた末に思いついたのが、この『御朱印帳、満願成就の旅』だった。

犬が大好きで、昔は柴犬を飼っていた母。その母を苦しめる病魔という名の悪い鬼を、伝説の犬が退治してくれたら。そんな荒唐無稽な願掛けに、今の私は必死にしがみついているのだ。


『まもなく高速道路出口です』


作り物めいた涼やかな声が、私を現実へと引き戻す。カーナビの案内に従ってウィンカーを出し、滑らかに車線を変更した。

料金所のゲートが目前に迫る。何度通っても慣れない、緊張の一瞬だ。速度は十分に落とした。ETCカードの期限も確認した。装置の稼働ランプも緑色に灯っている。何の心配もないはずなのに、もし、あのバーが開かなかったら、と心臓が跳ねる。まるで、人生の関門みたいだ。軽くブレーキに足を乗せた瞬間、何事もなかったかのようにバーは静かに上がり、私を日常の世界へと解き放った。


高速道路を降りてしばらく走ると、車窓の風景は一変した。緩やかな丘陵に、整然と並んだ果樹園が広がっている。この地域で栽培されているという、リンゴの木だ。今はまだ青い小さな実がついているだけだけれど、収穫の秋には、きっと赤く色づいた美しい景色が見られるのだろう。


ふと、リンゴが大好物な姉の顔が浮かぶ。いつも気丈に振る舞っているけれど、本当は私以上に不安なはずだ。お土産に買って帰ってあげたいけれど、残念ながらまだ時期ではないらしい。我慢しておくれ、お姉ちゃん。


カーナビが「まもなく目的地です」と告げる。


道の真正面に、古びた趣のある山門が見えてきた。車が走ることを想定していなかった時代、この街道はそのまま山門をくぐり、まっすぐ参道へと続いていたのだろう。今はその寸前で道が緩やかに右へとカーブし、山門を避けるように続いている。

交通案内の看板に従い、山門の左手に整備された駐車場に車を停めた。平日の昼間だからか、駐車場には数えるほどの車しかない。有給休暇の、実に正しい使い方だ。


車を降り、改めて山門の前に立つ。歴史の重みは感じるものの、想像していたよりもずっと小さい。左右を駐車場とアスファルトの車道に挟まれ、まるで現代に取り残されてしまったかのように、所在なげに佇んでいるように見えた。

正式な作法かは分からないけれど、まずは一礼。気持ちが大事、そう思うことにした。


山門をくぐった瞬間、空気が変わった。

ひんやりと湿り気を帯びた緑の匂いが、肺を満たす。まっすぐに伸びる石畳の参道。その両脇には、人の胸の高さほどまで苔むした石垣が続き、その上には天を目指して真っすぐに伸びる杉の大木が鬱蒼と茂っている。ざあざあと鳴っていた車の走行音が嘘のように遠ざかり、代わりに木々の葉が風に揺れる音と、鳥のさえずりだけが聞こえてきた。心なしか気温まで数度下がったように感じる。ここから先は、神仏の領域なのだと、肌で感じさせられた。


しばらく歩くと、石段の上に、先ほどとは比べ物にならないほど巨大で荘厳な山門が現れた。社務所を内蔵した二階建ての立派な門だ。お守りなども、こちらで授けてくれるらしい。

私は背負っていたリュックから、大切に持ってきた御朱印帳を取り出した。


「すみません、御朱印をお願いします」


社務所の窓口で声をかけると、人の良さそうな初老の男性がにこやかに出てきてくれた。私は緊張しながら、御朱印帳の最後のページを開いて差し出す。そう、これが最後の、一枚なのだ。


「ほう。これはこれは、頑張られましたなあ」


男性は私の御朱印帳を一瞥し、感心したように目を細めた。そして慣れた手つきで、まず鮮やかな朱色の印をページの中央に押す。印影には、凛々しく立つ犬の姿がくっきりと浮かび上がった。そこへ、流れるような筆運びで、墨痕鮮やかに寺の名前が書き入れられていく。ほんの一分も待たずして、私の御朱印帳は完成した。


「はい、お待たせしました。満願ですね。おめでとうございます」


満願まんがん


その言葉の響きに、胸が熱くなる。某アニメのように、七つ集めれば願いが叶うというわけではない。ただのスタンプラリーだと言われればそれまでだ。それでも、この一冊に込められた私の願いは本物だった。


「……ありがとうございます」


達成感に浸りながら御朱印帳を受け取っていると、ふと、横にあるお守りコーナーから無数の視線を感じる。事前にホームページで調べてはいたが、実際に目にすると想像以上の迫力だ。

A3サイズほどの底の浅い木箱、幕の内弁当のように細かく仕切られたその升目の一つ一つに、小さな、小さな犬が鎮座している。


わんこ、わんこ、わんこ。


高さ五センチほどの、素朴な陶器製の犬。その犬たちが、百匹は下らないであろう数で、一斉にこちらを見つめているのだ。


この犬こそ、このお寺のシンボル。

昔々、この地を荒らす悪い化け物を、この寺にいた一匹の犬が依頼を受け、遥か遠くまで遠征、たった一匹で退治したという『わんこ伝説』だ。勇者のようにパーティーを組むでもなく、ソロで鬼に立ち向かい、見事に勝利を収めたヒーロー。


その伝説のわんこが、今はお守りとなり、こうしてずらりと並んでこちらを見ている。可愛い。可愛いのだけれど、ここまで数が揃うと、何というか、無言の圧力がすごい。


分かった、分かったわよ。一匹、連れて帰りますから。

私はまるで念を送られているかのようにふらふらと木箱に近づき、中でも特に目が合ったと感じた中央右寄りの一体を手に取った。手のひらに載せると、ひんやりとした陶器の感触が心地よい。うん、やっぱり可愛い。この子にしよう。


「ふふ、その子になさいましたか」


おじさまの生温かな視線を感じて、顔が熱くなる。きっと、わんこを前ににやにやしていたに違いない。私はそそくさと代金を支払い、御朱印帳と新しい相棒を丁寧にバッグへと仕舞った。


ここで満足して帰りそうになるが、いけない。肝心のお参りがまだだった。おじさまに会釈し、私は本堂へと続く最後の石段を上った。


賽銭箱の前で、財布から小銭を……いや、ここは奮発して五百円玉にしよう。神道系の友人に、お賽銭は投げ入れるものじゃないと教わったことがある。確かにお金を投げるのは失礼だ。神様が嫌がるのなら、仏様だってきっと同じに違いない。私がもしその立場なら、間違いなく眉をひそめる。

そっと、滑らせるように硬貨を賽銭箱に入れると、コトン、と小さな音が響いた。これでよし。


お寺だから柏手はしない。その代わり、目の前には大きな大きな本坪鈴ほんつぼすずが吊り下がっている。これを鳴らして、仏様にご挨拶をするのだろう。私は太い綱を両手でしっかりと握り、力いっぱい揺らした。


がらん、がらん、という、鈴と呼ぶにはあまりに野太い音が、人気のない静かな境内に厳かに響き渡る。この音で、仏様もこちらに気づいてくれただろうか。

私は目を閉じ、静かに手を合わせた。



――どうか、お母さんの手術が無事に終わりますように。



脳裏に浮かぶのは、病室のベッドで弱々しく笑う母の顔。七年前に父を事故で亡くしてから、姉と私の二人を女手一つで育ててくれた、太陽のように明るい母。


病院の付き添いで疲れている姉の顔。


三人で食卓を囲んだ、何でもない、けれど愛おしくてたまらなかった、あの平穏な日常が、また戻ってきますように。


そして、心の中で、今日仲間になったばかりの小さな勇者に語りかける。



――わんこさん、あなたに指名依頼です。

どうか、私の母を苦しめる病魔と闘ってください。お願いします。


ただの神頼みではない。これは、私の、切実な「依頼」だった。

目を開けると、本堂の奥の薄闇が、ほんの少しだけ優しく見えた気がした。

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