第5話 希望という名の花


姉の美羽みうが高校時代の友人とのお茶会へと出かけた、その日の午後。


私は姉と入れ違うように、母の入院する総合病院を訪れていた。手ぶらで向かうのも味気ないと思い、病院からほど近い商店街の一角で見つけた小さな花屋に立ち寄る。母は花が好きだから、少しでも病室が明るくなれば、と思ったのだ。


しかし、私のそのささやかな計画は、店のドアを開けるなり頓挫することになった。


「いらっしゃいませ……ああ、お見舞いですか。あの病院、生花の持ち込みは禁止なんですよ」


店の奥から現れた店主と思しき男性の言葉に、私は「えっ」と間の抜けた声を上げた。そんな決まりがあるとは知らなかった。がっくりと肩を落とす私以上に、その男性のいで立ちの方が、よほど衝撃的だった。

逆立てた金髪は、中央部分だけを残して両サイドを綺麗に剃り上げた、見事なモヒカン刈り。日に焼けた肌に、鋲の打たれた黒い革ジャン。その姿は、花屋の店主というより、文明が崩壊した世界をバイクで駆け抜ける戦士、そのものだ。


私が言葉を失っていると、店の前を通りかかったランドセル姿の小学生たちが、屈託のない笑顔で彼に手を振った。


「アニキ また遊んでね」


「おう ちゃんと宿題やってから来いよ」


いかつい見た目とは裏腹に、その声は驚くほど優しく、温かい。子供たちからは「世紀末のアニキ」とでも呼ばれているのだろうか。そのやり取りから、彼が地元で慕われる優しい人柄の持ち主であることが窺えた。


「すみません、驚かせちゃいましたかね。花、どうします? ご自宅用でしたら、綺麗なガーベラが入ってますが」


「あ、いえ……」


どうしようかと途方に暮れていると、その優しい声色に、私の心の堰がふと緩んでしまったのかもしれないない。


「母が入院していて……もうすぐ、大きな手術を控えているんです。一度目の手術が、うまくいかなくて……だから、少しでも元気が出るような花を、と、思ったんですけど……」


自分でも驚くほど、言葉がすらすらと出てきた。このアニキの、人の話をじっくりと聞いてくれる雰囲気が、そうさせたのだろう。


彼は黙って私の話を聞き終えると、「そうでしたか。お母様、心配ですね」と深く頷いた。そして、少し考えるそぶりを見せた後、「それなら」と店の奥を指さした。


「生花が駄目でも、これなら大丈夫ですよ。お見舞いに造花は縁起でも無いと言う方も居ますが、美しい花で入院生活を明るくしようという想い。それが大事なんだと思うんですがね」


彼が提案してくれたのは、ペーパーフラワーだった。

店の一角に設けられた特設コーナーには、色とりどりの、まるで本物の花と見紛うばかりの精巧な紙の花々が並べられている。


「これ、すごいですね……本物みたい」


「でしょう。うちの嫁さんが作ってるんですよ。アイツ、手先が器用でねえ。俺みたいなガサツな男には、もったいないくらいの嫁さんでして」


そう言って、彼は盛大に、そして本当に幸せそうに笑った。その笑顔は、世紀末の戦士ではなく、ただ一人の女性を深く愛する、一人の男の顔をしていた。奥様の話をする彼を見ていると、私のささくれた心まで、ほんの少し温かくなる気がした。

家族の温かさ。それは、今の私が何よりも求めているものだった。


いくつも並べられた美しい作品の中で、私の視線は、ふと、一つの花に釘付けになった。

淡いピンクと白のグラデーションが美しい、数輪の花束。花びらの繊細な質感、葉脈の細やかな筋、朝露が光っているかのような瑞々しさ。それがすべて紙でできているとは、にわかには信じがたい。


「……これ、ください」


私は、まるで吸い寄せられるようにその花を指さしていた。


「お客さん、良い花を選びましたね。アルストロメリアと言う花です」


「アルストロメリア…… 一目惚れしてしまいました」


「そうでしょう、そうでしょう。その花の、花言葉はご存知ですか」


アニキは、悪戯っぽく片目をつむった。


「『未来への希望』ですよ」


未来への希望。

その言葉は、まるで強い光のように、私の心に真っ直ぐに差し込んできた。


――――


病室のドアをそっと開けると、母はベッドの上で身体を起こし、窓の外を眺めていた。その手の中には、私が先日持ってきた、陶器のわんこのお守りが大事そうに握られている。


「お母さん」


「あら、愛美めぐみ。いらっしゃい」


「うん、来たよ。これ、お土産」


私がアルストロメリアのペーパーフラワーを差し出すと、母は「まあ、綺麗……」と目を丸くした。


「これ、紙でできてるの すごいわねえ。これなら枯れないから、ずっとここに飾っておけるわ。ありがとう」


心から喜んでくれている母の笑顔に、私も自然と笑みがこぼれる。世紀末のアニキと、その奥様に心の中で深く感謝した。


「さっきまで、美羽がいてくれたのよ」


「あ、そうなんだ。お姉ちゃん、今日は友人とお茶会だって言ってたね」


「ええ。たまには息抜きしないと、あの子は無理をしすぎるから。でも、残念だったわねえ。お相手が友人じゃなくて、素敵な彼氏さんだったら良かったのに」


母が悪戯っぽく笑う。私も「ほんと、それ」と頷いた。そういう私も、彼氏いない歴を順調に更新中だ。母を安心させたい気持ちは山々なのだが、こればっかりはご縁としか言いようがない。

母の病気が治ったら、全国の縁結び神社を巡る『婚活成就の旅』にでも出ようか。いや、自分の努力不足を、また神様に丸投げしようとしている。きっと「それは自分で何とかしなさい」と呆れられてしまうだろう。


母が薬の時間になり、再びうとうとと眠りについた後、私は一人、静かな病室で物思いにふけっていた。


姉は、無理をしすぎだ。

私が今まで通りの生活を送れているのは、姉がすべてを背負い込んでくれているからだ。最初は、仕事を辞める覚悟までしていたと聞いた。それが会社の、女神様のようなご令嬢のスーパー配慮で失職を免れたけれど、それでも負担は計り知れない。母が眠っている横で、姉はいつもパソコンとにらめっこをしている。その背中には、隠しようのない疲れが滲み出ていた。今日、お茶会に誘い出してくれた姉の友人に、心から感謝した。


私がお母さんのためにできること。

その一つだった目標『御朱印帳を満願成就させること』は、先日達成した。

母の心、そして姉の心を、少しでも軽く、明るくしたい。その一心で、週末になるたびに車を走らせた。けれど、ゴールテープを切ってしまった今、私は次に何をすべきか分からずにいた。


何かをしなければ。

その焦りだけが、意味もなく心の中をぐるぐると駆け巡る。

アニキの奥様が作っていた、あのペーパーフラワー。あの技術を習得すれば、この殺風景な病室を、枯れない花でいっぱいにしてあげられるだろうか。


……いや、無理だ。不器用な私に、あんな芸術品が作れるはずがない。

今月末の手術まで、残された時間はあまり多くない。手術室へ向かう母の不安を、どうすれば和らげてあげられるのだろう。


いい加減に、認めなければいけない。

私は、ただ、不安から逃げているのだ。

どうしようもない、巨大な不安から目を逸らすために、がむしゃらに、一生懸命になれる「何か」を探しているだけなのだ。


神社仏閣を目指し、知らない道を車で走らせている間は、不安を忘れることができた。母のために、姉のために、私にできることをしているのだと、胸を張ることができた。

けれど、ゴールにたどり着いてしまった今、私は空っぽの手のひらを見つめている。守るべき盾を失い、丸腰で不安の濁流の前に立たされている気分だった。

どうしよう、どうしよう。その思いが、私を押しつぶしそうになる。


――でも。


私がこれだけ不安なのだ。

病と直接闘っている母は、どれほど不安だろう。

死の恐怖と、一人で向き合っているのだ。


そうだ。私のやるべきことは、もう一つだけ残っている。


不安に飲み込まれそうな自分を、叱咤する。顔を上げ、両手で頬をぱん、と叩いた。

悲しい顔は見せない。不安な気持ちも、おくびにも出さない。

精一杯の笑顔と、ありったけの明るい話題で、この重苦しい病室の空気を吹き飛ばすのだ。

目に見えない「不安」という名の怪物と、私は道化になって戦おう。


それが、今の私にできる、唯一で、最大の戦いなのだから。

私は負けない。絶対に。

深呼吸を一つして、私はとびっきりの笑顔を作った。


「お母さん、起きたら、この間の旅の面白い話、してあげるからね」


眠っている母に、私は力強くそう宣言した。

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