第3話 いつもの朝と、はじまりの予感

目が覚めてカーテンを引くと、すでに青空が高く広がっていた。窓を少しだけ開けると、ひんやりとした風とともに潮の香りが部屋へと流れ込んでくる。鼻の奥がくすぐられ、胸いっぱいに深呼吸をした。


ここは“Caffè Incontro(カフェ・インコントロ)”の2階。アンナさんが保護してくれてから、今のわたしの暮らしの場所だ。パイプベッドに、こげ茶の机と椅子、壁際には小さな洗面台。知らない世界に放り込まれたわたしに、こんな部屋を用意してくれたアンナさんとマスターには、本当に感謝しかない。


洗面台で顔を洗うと、水の冷たさが肌をシャキッと引き締めてくれて、自然と目が覚める。歯を磨いて、寝癖を整えて、鏡の中の自分に「よし」と小さく頷いた。こういう何気ない動作のひとつひとつが、“ちゃんと生きてる”と実感させてくれるのが、なんだか嬉しかった。


昨夜たたんでおいたエプロンを手に取り、腰に巻いて階段を駆け降りる。アイロンをかけたばかりの布地が、ほのかに温もりを残している気がして、それもまた心をふっと和ませた。


時計は、まもなく4時半を指すところ。マスターたちが来るまでは、あと1時間ほど。先に仕込みを始めようと、オープンサンド用のトマトとレタスを刻み、アボカドを潰してツナと混ぜる。オリーブオイルとレモンで味を調えていると、ふわりとした香りが鼻先に届いた。


この街・ピエモンテは港町だ。漁師たちは朝早くから海に出て、新鮮な魚介が名物になっている。オイル漬けのツナは、ここで採れたオリーブから作られたもので、アンナさんが誇らしげに話してくれたのを思い出す。


──キキッ、と小さくブレーキ音が聞こえた。


ガラスの向こう、入り口の先に見えたのはマスターのスポーツバイク。スリムなフレームに、ベイビーブルーのセミマット塗装。可愛らしい色味なのに、大人びた柔らかい雰囲気のマスターには不思議とよく似合っていた。


「ミア、おはよう」


「マスター、おはようございます!」


カフェのマスター、アイザックさん。アンナさんのご主人でもある彼は、アッシュグレイの短髪に、くたっとした生成りのニット、ブラックジーンズを着こなしていて──正直、50代には見えないくらいスタイリッシュだ。“イケおじ”という言葉が頭をよぎる。


「もうこんなに準備してくれていたのかい? まだ一週間しか経ってないのに、ほんとに助かるよ」


「えへへ、ありがとうございます。こうしてここにいられるだけでありがたいのに……。もし拾ってもらえなかったら、わたし本当にホームレスになってたかも……!うぅ、想像するだけで怖い!」


「ははっ、相変わらず大袈裟だなあ」


──と、そこで彼がふと思い出したように言った。


「そうそう、今日は月曜日だろ? 君を見つけて救急車を呼んでくれた“彼”が来る日だよ」


「えっ……そうだったんですか!?」


とっさに背筋が伸びる。顔を見たこともないのに、なぜかどきどきしてしまう。


「ちゃんとお礼言わなきゃ……。マスター、もしその方が来たら教えてもらえますか?」


「ああ、もちろん。彼はいつも7時ちょうどに来るんだ。出勤前の習慣らしくてね。学生のころからの付き合いなんだよ。あの頃の生徒が、いまじゃ魔法教師になってるなんて──いやあ、感慨深いなあ」


「へえ……なんか素敵ですね。じゃあ、わたしは外の掃除とテラスの準備、してきますね」


「よろしく頼んだよ」


掃き掃除用の道具を手に、外へ出る。朝の光が差し込むカフェ前の港には、波がきらきらと反射し、小さな舟がぷかぷかと浮かんでいた。白や赤、青などのカラフルな小舟たちが並ぶ様子は、絵本の挿絵のように愛らしい。


建物の壁は暖色のレンガで統一されており、ひときわ目を引くのがカフェ・インコントロのオリーブグリーンの外壁。クリームイエローの縁取りが温かみを加えていて、街の雰囲気にもすっかり馴染んでいた。


テラス席に脚立を持ち出して、オーニングの埃を丁寧に払っていく。ここで働かせてもらって、今日でちょうど一週間。慣れないことだらけだったけど、少しずつ手が覚えてきた気がする。


テーブルと椅子を拭いて、メニューを立てたところで準備完了。


「マスター、終わりました!」


「ありがとう。こっちも一段落だ。さ、朝ごはんにしよう。今日は動きっぱなしだったろ? 座って、ほら」


「わぁ……いただきます!」


朝食に出されたのは、自分が作ったアボカドディップをバゲットに塗ったもの。それを見て、小さく達成感がこみ上げた。自分の作ったもので、誰かの食卓が満たされる──そんな当たり前が、今のわたしには本当に嬉しい。


コーヒーをひと口飲む。果実のような甘みと、すっきりした酸味。

マスターが、わたしの好みを覚えていてくれる。たったそれだけのことが、驚くほど胸に沁みる。


きっとそれは、「あなたのことを大事に思っています」って、静かに伝えてくれる味だった。


気づけばもう6時45分。

港には、漁を終えた船が続々と戻ってきていた。


潮風に触れながら、看板を外に出す。空気は少し湿気を含んでいるけれど、それさえも、この街の“朝”の一部として心に馴染んでいた。


──そして、今日も“いつもの一日”が始まろうとしていた。


──あの人に、再会するまでは。

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