第2話 夜明けの国のはじめの一歩

あれからずっと、点滴の雫が落ちるのを見つめていた。残りは、あと100mlほど。おそらく、あと1時間もすれば終わるだろう。


その間に“これから”のことを考えなくてはならないのに、思考は空回りするばかりで、答えは一向に見つからない。

気づけば、指先に力が入っていた。


──コンコン。


小さなノック音のあと、返事を待たずにドアがすっと開いた。


「ごめんなさい、驚かせたわね」


その声に肩がビクリと跳ねる。

視線を向けると、見知らぬ女性が立っていた。


年の頃は50代くらいだろうか。テラコッタ色のボブカットに、柔らかな茶色の瞳。明るい黄緑色のTシャツワンピースに白いエプロンを重ねた装いは、元気で快活な印象なのに、全体からはどこか包容力のある雰囲気がにじみ出ていた。


(……なんとなく、“お母さん”みたい)


そんなつもりはなかったのに、胸の奥がじんと熱くなり、目元が潤んだ。


「あ、あの……!」


「ふふ、大丈夫よ。無理に話さなくても。緊張するわよね」


穏やかに微笑みながら彼女は言った。


「……あなたを見つけて救急車を呼んでくれたのは、うちの常連さんなの」


「……え?」


「“あの子を放っておけない”ってね。でも彼、仕事の途中だったから……私たちが託されたのよ」


「え、あ……そうだったんですか……。

すみません……ありがとうございます」


ぽかんとしたまま、ようやく掠れた声を絞り出す。


(……誰かが、“放っておけない”と思ってくれた)


それだけのことが、こんなにも胸に響くなんて──


「体調は、大丈夫?」


「あ、はい……たぶん。でも、鏡をまだ見てなくて。どんな顔してるか分からないんです。みっともない顔だったら、ちょっと恥ずかしいかなって……あはは」


自嘲ぎみに言ったその言葉に、どこかぎこちなさが滲む。


「そうなの? わたし、鏡持ってるわよ。見てみる?」


そう言って、彼女──婦人は小さな折りたたみミラーを差し出した。


(あ……そういうつもりじゃなかったけど……)


けれど、せっかくの申し出だ。わたしはペコッと頭を下げて受け取った。


久しぶりに見る自分の顔。少し緊張して、口を引き結ぶ。

そっとミラーを開き、目を閉じて、ひとつ息を吐く。


そして──


「……ふっ。ん、ぐすっ」


「え!? どうしたの!?」


思わず声を上げた婦人に、申し訳なさと戸惑いがこみ上げる。


(そうだよね、びっくりするよね)


けれど、ミラーに映るわたしの顔は──

黄疸のない肌、こけていない頬、しっかりと開いた目──


「……ああ、ちゃんと、生きてる……」


「えっと……変に聞こえると思うんですけど……わたし、この前、死んだばっかりだったんです」


「……え?」


「す、すみません!変なこと言って。でも……嬉しかったんです。

肌の色が戻ってて、目がちゃんと開いてて。それだけで涙が止まらなくなって……」


言っていることは支離滅裂かもしれない。でも、これは正直な気持ちだ。


(もう取り繕うのはやめよう。これも“わたし”だ)


少しの沈黙のあと、婦人が静かに口を開いた。


「ねぇ……あなた、名前は?」


「え? あ、伊藤美亜です。ミアって呼ばれてました」


「“ミア”。可愛い名前ね。わたしはアンナ・ベイカー。よろしくね、ミア」


「アンナさん……よろしくお願いします。

あの、変な話のあとにまた変な質問なんですけど……」


「ふふ、いいのよ。なぁに?」


「ここは……なんていう国なんですか?」


「“夜明けの国”よ。その中にある“ピエモンテ”っていう、小さな港町」


「……夜明けの国……。おしゃれな名前……」


「ミアはどこから来たの?」


「“日本”っていう国です。ご存じ……ないですよね」


アンナさんは少しだけ首を傾げて、困ったように微笑む。


「うーん……聞いたことはないわね。でも、わたし地理には疎いから。もしかしたら地図を見れば、あるのかもね?」


「あ……はい。そうですよね」


喉が、ごくん、と大きな音を立てた。

この世界に“日本”は存在しない──その現実が、背中を冷やす。


(……でも、生きていかなきゃ)


「アンナさん……。この街で、働ける場所を探したくて。

わたし、この世界のこと、なにも分からないし……」


噛みながらも、言葉を繋ぐ。


頼るというのは、思っている以上に勇気がいる。でも、それをしなければ、わたしはまた何も始められない。


「……ふふ。真面目でいい子ね。だったら、うちに来ない?」


「えっ……?」


「夫と一緒にカフェをやっているの。今ちょうど手が足りなくてね。

お給料は多くないけれど、ご飯と寝る場所くらいは、なんとかなるわよ?」


思いがけない提案に、目を瞬く。


まるで夢みたいだ。けれど、あたたかく差し出されたその言葉に、胸がぽっと熱を帯びた。


「……いいんですか?わたし、どこの誰かも分からないのに……」


「そんなの、これから知っていけばいいじゃない?誰だって最初は“はじめまして”よ」


アンナさんはにこりと笑ってから、ふっと肩をすくめて続ける。


「それに……行くところはないんでしょう?」


ぐっと喉が詰まり、返す声は上ずった。


「……はい」


「ふふ、それなら決まりね。ウチに来なさい」


「……はいっ。よろしくお願いします!」


ベッドの上で、できる限り身体を折り曲げてお辞儀をする。

毛布からふわりと香るフローラルな香りは、優しいはずなのに、どこか泣きそうな気持ちにさせた。

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