第4話 月曜日のテラス席
──カラン、コロン。
ジャズが流れる店内に、ドアベルの音が控えめに響いた。
現れたのは、黒のプリティッシュスーツにスカイグレーのシャツ、赤のネクタイを締め、同じ赤で揃えたソックスをのぞかせている男。手にはレザーグローブ。まるでファッション雑誌から抜け出してきたかのような出で立ちだった。
──けれど彼の纏う空気は、明らかに“日常の延長線”にはいなかった。
「おはよう、マスター。いつも通り、濃いめのコーヒーを」
「やあ、ヘンリーくん。今日も時間ぴったりだね。食事はどうだい?」
「ふっ。あいにく、俺は朝食を取らない主義でね」
「はっはっは。聞いてみただけさ」
「じゃあ、テラスの席にいる。頼んだよ」
そう言って、男──ヘンリーさんは店の奥を通り抜け、外へ出ていった。
彼の背中を見送りながら、マスターが豆を挽く手を止めずにこちらを振り返る。
「ミア。さっきの彼が、救急車を呼んでくれた“本人”だよ」
「えっ……!?」
思わず声が漏れた。
てっきりもっと、親しみやすい雰囲気の人を想像していたのに。冷静で、どこか距離を置くような物言い──あんな人が、倒れていたわたしを見て、助けてくれたなんて。
勝手な思い込みだったとはいえ、イメージが噛み合わなくて、胸がちくりとした。
「いまコーヒーを淹れるから、ミアがテラスまで持って行ってくれるかい?」
「……はい、ありがとうございます」
マスターの手際は実に滑らかだった。挽きたての豆にゆっくりとお湯を注ぎ、膨らむ粉を見つめる時間までが丁寧で、見惚れるほどに静かな所作だった。
「はい、できたよ。よろしく頼んだよ」
「はい」
カップとソーサーをそっと受け取り、湯気の向こうに広がるナッツやチョコのような香りに包まれながら、外のテラスへ向かう。
そこでは、スーツの彼がテーブルに肘をつき、港の方を眺めていた。
整えられたホワイトブロンドの髪に、ぴしりと決まったスーツ。まるでこの街の色彩とは対照的な、モノクロームな存在。
「お待たせしました。オリジナルブレンドになります」
「ああ、ありがとう」
視線は相変わらず港に向けられたまま。
(緊張する……でも、ちゃんと伝えなきゃ)
「……あのっ」
「ん?」
こちらをちらりと見やる視線。目が合った瞬間、肩が思わずびくりと跳ねた。
「先日、救急車を呼んでいただいたと伺いました。本当に、ありがとうございました。おかげで、助かりました……」
「ああ……あのときの君か。
倒れてる人間を見て放っておくほど、目覚めの悪いことはないからな。それだけだ」
「それでも……感謝しています。今はこうして、ここで働かせてもらっていて──
あ、わたし、ミア・イトウといいます。どうぞ、よろしくお願いします」
「……変わった名前だな。
俺はヘンリー・ホワイト。よろしく」
ふと目の端でこちらを見た彼の顔が、わずかに柔らかくなった気がした。
「あはは、やっぱり変ですよね。
では、どうぞごゆっくり」
ぺこりと頭を下げ、店内へと戻る。
ようやくお礼が言えて、心の奥が少しほどけた気がした。
「ミア、お礼は言えたかい?」
マスターが目を細めて声をかけてくれる。
「はい、ちゃんと……伝えられました」
安心したように微笑んだマスターは、そのまま作業に戻る。
わたしも手を動かし始め、洗い物を片づけていた時だった。
──ふわり。
マスターがカップとソーサーを魔法でふわりと浮かせ、カウンター越しの客へと運んでいた。
初めて見たときは驚いたけれど、今はもう、少しずつ見慣れてきた。
この世界では、“魔力”を持つ人と持たない人が、当たり前のように共に暮らしている。
最初にそう説明を受けたときの、不思議な感覚をふと思い出す。
──カラン、コロン。
「マスター。そろそろ行く。
……今日も生徒の世話で忙しくなりそうだ」
「ステラ・フォルトゥナ・アカデミーの先生になっても、口の悪さは学生のころと変わらないなあ」
「ふん。そっちこそ、15年前からコーヒーの腕が変わってない」
「ははっ。相変わらず憎まれ口だけは達者だね。けど、ありがたいことに店は繁盛してるよ」
「それは何よりだ。……じゃ、また」
ひらりと手を振って、ヘンリーさんは風のように出ていった。
ジャズの音が、また静かに空間を満たす。
「……マスターとヘンリーさんって、長い付き合いなんですね?」
気になって尋ねると、マスターは懐かしむような顔を見せた。
「ああ。彼が“ステラ・フォルトゥナ・アカデミー”の生徒だったころから通ってたよ」
「さっき“15年”って……。その学校、近くにあるんですか?」
「うん、ピエモンテの山の上にある“魔法士養成高校”さ。彼はそこの卒業生で、いまは教師をしてる」
「へぇ……すごい……。マスターもだけど、ヘンリーさんも魔法使いなんですね」
「はっはっは!僕の魔法なんて彼と比べたら、そりゃあ“月とスッポン”さ」
「そんなことないです。わたしがいた場所には、魔法なんてなかったんですから……マスターだって、十分すごいです」
「そう言ってくれるなら、励みになるよ。
──じゃあ、このあともよろしくね、ミア」
「はい!」
あの頃の不安は、少しずつ霧が晴れるように遠のいていく。
胸の奥のざわつきはまだ消えない。でも──その違和感すら、どこか心地よく感じ始めていた。
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