第2話
目が覚めた。
不意に意識が戻ったのだ。
夜の夢を見ていたから、外から射し込む光に、少し混乱した。
(夢か……)
不思議な夢だった。
確かに、
陸績が泣いていて、
陸家の者達が彼を囲んで共に泣いている時に、
陸議は一人部屋に籠もって、これからどうするべきかを考えていた。
孫家に帰順するということを、
陸家の者達に発する前に、陸績にだけは話した。
『
彼は呉の豪族達に、広く協力を求めています。
私は……、』
陸績の澄んだ瞳が、じっと自分を見つめて来る。
父を殺されたというのに――その父が、今は家督を実子の陸績ではなく、
悲しげに澄んで、自分の言葉を待ってくれている。
『……
しかし今はまだ、貴方が幼い故のことです。
貴方が成人した時には私は必ず家督を貴方に返し、陸家の家臣として貴方に従おうと考えています。
ですから、貴方は幼くとも未来の陸家の当主。
もし貴方が自分で考えて私の言っていることでも、納得出来ないことや疑問に思うこと、従いたくないことがあれば言って下さい。
貴方の言葉は、私は誰よりも重んじます』
そんな話を今までしたことがなかったので、
『……私は、孫家に、陸家は帰順した方がいいと考えます。
確かに孫策は、陸康殿の仇。
江東が平定されれば、
しかし今度は孫策のいる
許貢は孫策の父、
許貢が死ねば孫策は必ず、蘇州の陸家が袁術に付くか、孫家に付くかを求めて来る。
孫策はもはや、袁術の許で首に縄を付けられていた時とは別人です。
陸家が恭順を拒めば、江東平定の妨げになると見て、今度こそ彼の意志で蘇州を攻めてくると私は思っています。
孫策は袁術を手を切り、長江を越えた。
彼は機運を掴んだのかも。
……ここは、一刻も早く孫策に帰順を示し、逆らう意志が無いことを伝えた方がいいと思っています』
陸績は、静かなまま陸遜の話を聞いてくれた。
話している間も、小さく何度か頷いていて、聞き終わって数十秒押し黙ると頷いた。
『私も、そうした方がいいと思います』
『……孫策は
『父上は私や
それは生きねばならないからです。
ここで孫策と戦って陸家が滅びれば、父上の願いが無駄になってしまいます』
陸議は一瞬俯いて目を強く閉じ、零れそうになった涙を堪えた。
彼に泣き顔を見せたくなかったので、彼を抱き寄せて誤魔化す。
『よく言ってくれました。貴方の今の言葉を、陸康殿は必ず喜んでいます』
『……それに、伯言が教えてくれました。孫策を陸家にけしかけたのは、袁術です。
父上を殺したのは確かに孫策ですが、袁術が命じれば、あの時の孫策に拒むことは出来なかったと思います。避けがたい運命だったのだと、思います』
陸議も頷いた。
『ありがとう、
『伯言。私は陸家を存続させる為に、伯言が必死に考えてそうした方がいいと決めてくれたことなのだと思っています。
もし陸家の者達が反発するようなら、私も伯言に賛成すると言って下さい。
私も、皆と話して分かって貰いますから』
陸績は、
父の聡明さや優しさを強く受け継いでいた。
体は生まれつき弱かったが、
乱世において、強くならなければならないんだという努力を、怠ったことは一度も無い。
いい機会に恵まれなかったが、陸議は呉の中枢で任官を受ければ、陸家の家督は陸績に譲ろうと、本当に考えていたのだ。
その時々に色々と忙しく出来なかったが、出来れば周瑜や孫策に陸績を会わせて、その場で認めてもらう形でそうしたかった。
陸議は
陸家と疎遠になってもこれからは生きていけるし、政の中枢などに関わると、家の強い影響力などは無い方が色々都合がいいのである。
元より
名ばかりの当主だったのは、むしろ陸議の方だった。
月日が流れ、自分の運命を受け入れられるようにはなっていたけど、
夢では確かに、今の成長した自分があそこにいたら、陸績と陸康を自分が逃がし、自分が廬江城に残りたいと何度も思ったことがある。
しかしあそこまで鮮明に、そうなったのを夢に見たことはない。
いつも叶わない願いを見ていた。
あの夢の中で、心の底から廬江城にたった一人、自分が残りたいと思った時……、
ずっと分からなかった、
何を願って、龐統があそこにいたのか。
自分の人生に絶望し、陸議をせめて巻き添えにし、呉軍を巻き添えにし、同じ蜀の軍師である
廬江城で一人残った時、
これで自分が陸家の為に果たす使命を全部全う出来たと、そう思えた。
そう思えた時、少年時代から抱えてきた孤独が消えたのだ。
陸家の当主になった時からのことばかりだけではなく、
彼は陸績の父であり、世話をして貰っているという気持ちは消えたことはない。
それがあの廬江戦で城に残れた時、ようやく恩義を返して陸家の一員になれた気がしたのだ。
陸康の子供として、父に大きな恩を返せたと。
心の中から、孤独や罪悪の念が消えた。
安堵したのだ。
――使命を全うする。
あるいは、重荷を下ろす。
多分
それまでの歩みを全て捨てて。
新しく道を自分で選び直した。
それなら職を辞して、呉にくれば良かったのにと陸議は思う。
彼にとって命は重い。
命を失うくらいなら
多くの者が彼を憎んでいる。
彼の願いを知らず、人柄を知らず、呉から去ったことを憎んでいる。
憎しみの種が蒔かれたら、それを無かったことにすることは困難なことなのだ。
(それに、龐統は多分、呉を去ったことを後悔などはしていないのだろう)
一度自分の足で蜀に赴いたことも、受け入れてるはずだ。
少しずつ何かが許されなくなった状況の中で、敵対した者同士として、最後に陸議に友人として会いに来た。そう思えたのは、あの夢で一人城に残ったからだ。
(不思議だ)
あんな夢を見たことは一度してなかったのに。
そのために心が崩れて敵の手に落ち、今、こんな所にいる。
それなのに夢で龐統の口にしなかった彼の心に触れた気がする。
ふと陸議はしばらく天井を眺めながら、考えていた視線をずらした。
すると寝台のすぐ側の窓辺に
思わずその姿に、微かな笑みを浮かべてから陸議はゆっくりと慎重に、動く方の手を伸ばして、徐庶の腕に触れた。
「徐庶どの」
あまり上手く出なかった声で囁くと徐庶がすぐに気付いて、目覚めた。
「陸議殿。目が覚めましたか」
急いで彼は立ち上がった。
「はい……大丈夫です」
陸議は熱を出していたので、徐庶は手の甲で陸議の額に触れたが、熱はもう帯びていなかった。
「すぐに
「徐庶殿」
陸議が出て行こうとした徐庶を呼び止める。
「ありがとうございます。でも……情けないことですが、実は今にも寝そうで。
頭もまだ、全く動きません……。
司馬懿殿を呼びに行っても、ろくに話せないような気がします。
今は……」
徐庶は数秒考え、頷いた。
彼は陸議の側にもう一度、腰を下ろした。
「酷い怪我だったので、疲労を感じて当然です。もう少し休んだ方がいい。
もし司馬懿殿の使いの方が来られたら、目覚められたとお伝えしておきます。
司馬懿殿も、
「ありがとうございます」
小さく陸議は頷いた。
「さあ、私のことは気にせず、寝て下さい」
本当に疲れを感じていたので陸議は目を閉じた。
少しの間そうしていたが、もう一度瞳を開く。
徐庶が腕を組み視線を足下に落として、何かを考えている顔だった。
「……
陸議が尋ねて来たので、徐庶は小さく笑む。
「大丈夫です。ここは
色々ありましたが、今は戦況は落ち着いています。
一刻を争うようなことは起きていませんので。
その証拠に私もこんなところで昼寝を」
徐庶がそう言ったので、少しだけ陸議は安堵した表情をしたが、今、一瞬、徐庶は何か深刻そうな表情をしていた。
動かない頭を、記憶が遠くなっているものを、必死に思い出してふと気付いた。
「徐庶さん、……
徐庶が息を飲んだ。
「記憶が少し混乱していますが……あの燃えた村の惨状を見て、確か、黄巌さんが他の村も見に行くと……」
「……。」
「……ご無事ですか?」
「実は
説明は省きますが彼も今、重傷を負って、目覚めていない状況です。
……陸議殿。本陣が……夜襲にあったことは覚えていますか?」
「夜襲……」
「敵に襲われたことを。
陸議の表情は不安げで、ほとんど無意識だったのだと少し徐庶は驚いた。
陸議の体にある無数の傷は刀傷で、練習などでつけたものか、実戦でつけたものかは徐庶には判断出来た。
陸議の体には、戦場で受けた傷がある。
しかも、不運でそうなったものではない。
どちらかというと徐庶の体にある剣傷に近かった。
つまり戦場の最中で付く類いのものである。
陸議の過去は謎に包まれているが――兵士だったのだろうか?
しかし敵の殺気を感じ取り、覚醒し、無意識に首を叩き落とすなど、余程のことだ。並の剣の使い手ではない。
(こんな普通の青年に見えるのに)
物静かで、穏やかな性格をしているように見えるが陸議には何か、内に秘めた激しい事情があるような気がした。
「そうですか……。
そこに運良く私が通り掛かり、お二人を陣外に連れ出そうとしたのですが、敵に気付かれ、襲われそうになったところを黄巌が戻って来て、助けてくれました。
彼はその時にはもう負傷していて、そのまま倒れて、ここに担ぎ込まれたのです」
「目覚められていないのですか」
小さく徐庶は頷いた。
「……徐庶さん。私はもう、大丈夫です。
どうか
「いや……俺は……」
「黄巌さんは魏軍の方ではありません。
魏軍と涼州騎馬隊を戦わせないよう奔走して下さった方なので、
きっと心細く思われます。
側にいて差し上げて下さい。目覚めてても、目覚めてなくても」
陸議がそう言うと少し徐庶は目を瞬かせたが、不意に目を細めるようにして笑った。
「徐庶さん?」
「いや……。
君は若いけど……本当にどんな状況でも落ち着いて誰かの心を考えられる人なんだね」
陸議の目に掛かる前髪を少し指で避けるようにして、彼を見つめてから徐庶は立ち上がった。
「ありがとう。部屋の前に軍医がいるから、彼には目を覚ましたことを伝えて部屋にいてもらう。何かあったら遠慮せず言うんだよ」
徐庶が重ねた自分の手を、陸議はゆっくりと上げてみた。
徐庶はああ言ったが、陸議は元々、どんな状況でも落ち着いて誰かの心を考えられる人間ではなかった。
苦しい状況では、素直に自分のことしか考えなくなる。
元々はそういう人間だったのだ。
しかし父を無残に殺されても、自分に心を寄せてくれる
自分が苦しくともそれを秘め、笑むことで周囲を鼓舞する
それだけだと思う。
今、
夢の中で、龐統の心に触れられた気がしたからだ。
苦しい時なら、友に会って話したいはず。
そんな風に思った。
多分自分は、龐統にそれを教わったのだ。
自分の運命がどんなに酷なものになっても、
それは周囲の者を巻き込むためにあるのではなく、
周囲を混沌の渦に関わらせぬよう、心を配って生きれば、
必ず、それを分かってくれる人に出会えるということを。
国を問わず、結べる純粋な友情があることを彼に教わった。
そういう人は大切にしなければならないということを。
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