花天月地【第74話 雨雲の終わり】
七海ポルカ
第1話
扉をそっと開くと、
その前を守る見張りに一礼してから彼はその場を立ち去り、別の部屋の前に立った。
見張りが何も言わずに扉の前を開けたのは、司馬孚だったからである。
「
少しお話ししたいことがあるのですが、不都合であれば出直します」
兄とはいえ、総大将の責務を負った司馬懿である。
数秒間が空き「構わん、入れ」と声がしたので拱手し、扉を開いて中に入っていく。
司馬懿は執務用の机の前にいた。
「お忙しい所、申し訳ありません」
「行軍中には探せば探すだけ時を費やすものはある。
お前は時も弁えず時間を取らせるような馬鹿でないのは分かっている。
何かあるなら遠慮せず言いに来ていい」
「はっ。ありがとうございます」
「現状、
今はその経過を待っている時間ゆえ、気にするな」
司馬懿は顎で近くにある椅子を示した。
「陸議の様子はどうだ」
「軍医は手を尽くしてくれていますが、お目覚めにはなっていません」
「そうか」
司馬懿の声は静かだった。
悲しみや、不安といった様子も見られない。
「なんだ?」
こっちを見る弟に気付き、司馬懿は尋ねた。
「いえ。兄上は……こんな状況になっても落ち着いておられるなと」
「打てる手立ては打ったのだ。あとは騒いだところで、どうしようもない」
兄が陸議をどんなに大切に思っているか、司馬孚は理解していた。
兄自身が、さほどではないと例え口や態度に出しても、それは真実ではないと司馬孚は思っている。
「……兄上、本陣で、夜襲に遭った時……幕舎まで暗殺者が斬り込んで来ました」
司馬懿が茶を飲んでいた視線を上げる。
「
司馬懿は動かせない陸議を、司馬孚が本陣の騒ぎが収まるまで側で守っていたところを、
「――何があった?」
「敵の気配が近づいてきた時……敵は幕舎の外から直接斬り掛かって来ました。
あの者どもは、潜んでいても人の気配が分かるようです。
入り口を避け、幕舎の奥にいたのですが勘付かれました。
そして幕舎の幕を裂いて斬り掛かられた時……」
司馬孚がここに来た時、すでに何かを予期していたように思う。
弟が思い起こしながら話す内容を聞く内に、司馬懿の
「陸議殿が目覚め、敵の首に一太刀を」
ガタンと椅子から立ち上がり、
司馬孚にはその時のことが衝撃的だったので、怯えを含んで思い出しながら話していたのだが、その時彼は、自分の兄が滅多に見せないような嬉しそうな表情で自分を覗き込んで来ていることに気付いた。
「前触れもなくか?」
「まさか。死の際におられました。軍医も目覚めるかどうかの瀬戸際だと」
司馬懿が机の側にあった剣を手に取った。
司馬孚に手渡す。
「その時の陸議の太刀を見たか?」
「は、はい」
「再現してみろ」
「えっ?」
「一太刀目はどこを狙った?」
鞘のままとはいえ、司馬懿が突然剣の先を自分の方へ向けた。
兄に剣を向けるなど、と思ったが司馬懿は話に没頭しているようで、剣を握りしめた手を緩めてくれなかった。
仕方なく、司馬孚は当時を思い起こしながら再現する。
「私は敵から
司馬懿の喉に当てるようにして、右斜めへ剣を動かす。
「斬り払うようにして、右上へ。さすが名刀【
「なんだ?」
「……何故そのように、喜んでいらっしゃるのですか?」
何か、怯えるようにそっと
「何故、か」
弟が、陸議のどういう部分に惹かれているか、司馬懿は良く理解していた。
恐らく年齢にそぐわない落ち着きや聡明さ、穏やかさ、そんなものだろう。
司馬孚自身がそういう人間なので、近さを感じている。
だが司馬懿が
死にかけていても敵の気配に勘付き、寸分の狂いも無く敵の喉を突き、首を飛ばした。
これが喜ばずにいられようか。
それが戦場に連れてくれば、放ってそこに置いておいても自然と輝き出す。
――これぞ才ある者の本能だ。
「お前には分からぬだろうな」
確かに、自分は兄に比べたら陸議のことなど少しも分かっていないのだと思う。
だが分かりたいと思っている。
許都では陸議の素性を探るなど、彼を苦しめそうで、苦しめるくらいなら詮索などしたくなかったが今は違う。
(理解したい)
何か、彼には特別な、他の人間にはないものを感じるのだ。
自分の直感など、大したものではないが、
(だけど私は、知りたいのだ)
司馬孚は決意し、兄を見た。
「兄上、陸議殿のあの剣さばき……、敵に怯まず立ち向かう、意志。
あの方は兄上のお側で世話や助言を行う方ではないのですね。
あの動きは――完全な武官です。
それも初陣などでは無く、戦に慣れておられる」
南郡守備台の夜襲で、奇襲部隊の中に陸議の姿を見つけた時の気持ちは、言葉では言い表せない。
司馬懿と陸議は、いつも
「
ですが聞き届けて頂けるならば、陸議様のことを私にお話し下さらないでしょうか。
他意はありません。
ただ理解したいのです。
陸議様は、凡庸な私の想像を超える、過去をお過ごしになったと私は考えます。
故に、兄上は陸議様を特別に見ておられる。
お聞かせ頂けるなら私はこの先兄上と等しく、陸議様にも傅いて仕えていく所存です!」
「司馬家の三男として、それが自分の使命であると思い定めました」
「――この行軍中に、考えていたことがある」
「許都にお前を呼び陸議の側仕えにしたが、任を解くべきだと」
何かを言おうとした弟を手で制する。
「私は幼い頃より司馬家の兄弟を見て来て、各々の才を、すでに見定めた所があった。
無論、お前もな。
だが間違っていたようだ。
私が陸議を側に置くのは自分と違う才を、あれが持っているからだ。
だからこそ私の剣となり、盾となる。
お前も、私とは異なる才だ。
お前が望むなら側仕えの任を解き、
「わたしを……」
司馬孚はさすがに驚いた。
司馬懿は曹丕の側近だ。その補佐など国事に関わることになる。
それは司馬孚の望んだ仕事では無い。
しかしこの優れた兄に、共にいる内にそう考えるようになったと言われれば、喜び以外の何も感じなかった。
「光栄です、兄上……」
「良いのか」
司馬懿が静かな声で言った。
「一度王宮に踏み込めば、お前の望む気ままな学院生活は二度と願うことは出来まい」
確かに、好きなことを学びながらささやかな役人にでもなれたらと思っていた。
それが
「確かに学者のような生活に焦がれていたことはありますが、
それは私の運命において、兄上、陸議様の側で働くなどということを想像だにしなかった頃の、子供の頃の夢です。
涼州遠征に加えていただき、自分自身の運命というものを、私は少し見定めました。
私は人の上に立つ才気はなく、優れた方を補佐する使命を持つ者です。
気ままでなくとも、もう構いません。
尊い使命を果たそうとなさっている、兄上のお側で使って頂けるならば!」
司馬孚ならば陸議が世話をされても嫌がらないだろうと、ただそれだけのことだ。
その頃には司馬孚が戦場に出ることを望み、小さい頃から折に触れて語って、厳格な父を呆れさせ失望させていた「学問を究めたい」などという夢を、穏やかな弟が捨てる日が来るとは想像もしていなかった。
司馬懿と二人でいただけでは、これは現れなかった司馬孚の別の顔なのだ。
「お前の心はよく分かった。
許都に戻り次第、
言うに及ばぬことだが、私は殿下に他人を推挙したことは一度も無い。
そして私が司馬家と疎遠であることも、身内の
初めて推挙する人間が、司馬家の人間であることは殿下も多少驚かれることだろうが任じて下さるはずだ。私と殿下の顔に、泥は塗るな」
「はっ! この命を賭して、曹丕殿下と
司馬孚が深く
司馬懿はゆっくりと立ち上がる。
「これから言うことは、他言無用だ」
頭を下げたままの司馬孚が頷く。
「……
陸家はかつて、当主であった
陸議は陸康の養い子にあたり、実の親子のように手元で育てられた。
陸家は廬江戦のあと、孫策が江東を平定すると孫家に帰順した。
当主としてその決定を下したのが陸議だ。
陸康には実子が一人いたが、陸議より数歳年下であることから、成人を果たすまで陸議が当主の座を預かっていたからだ。
孫家に帰順した古き江東の名門。
それを私が生け捕りにして、
まあそうだろうな。
「魏軍と蜀軍とも、陸議は戦ったことがある」
「しかし……」
辛うじて、掠れた声を司馬孚が出した。
「なんだ?」
「しかし何故、今、陸議様は魏に忠誠を誓っておられるのですか」
司馬孚の問いを聞いて、
「――陸議様は敵に捕まったからといって、母国への忠義を忘れるような方ではないと思います。あの方は……意志の強い方です」
「長くなるが、お前にだけは全てを話してやろう。
このことは
陸議が呉軍の中枢に関わる者と分かれば曹丕殿下は処刑されるか、間者として尋問に掛け、情報を得ようとなさる。
呉軍の情報を売ることになれば、陸議は必ず自刃するだろう。
全ては曹丕殿下の目の及ぶところでなさねばならぬとはいえ、この件だけは慎重にせねば、
「……よく、理解しました。
決して他言致しません」
座れ、と司馬懿が椅子を示した。
その自分の傍らに補佐として司馬孚と陸伯言を配置する……。
信頼出来る者と、
自分の期待を裏切らぬ者。
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