第4話 アイデンティティの崩壊
一週間が過ぎた。
沙織の間違いの回数は八回に達していた。子供は毎晩現れ、同じ質問を繰り返す。そして沙織は、恐怖に駆られながらも必死に答えを探し、毎回間違える。翌朝には必ず何かが変わっている。
物の配置から始まった変化は、もはや部屋の外にまで及んでいた。向かいの建物の看板が変わり、通りの名前も微妙に違う。沙織の知っている世界が、少しずつ別のものに置き換わっている。
午後二時、クライアントとのビデオ通話があった。新しいプロジェクトの打ち合わせで、久しぶりにカメラをオンにする必要があった。
画面に映った自分の姿を見て、相手の担当者が首をかしげた。
「田村さん、髪切られました?前回お会いした時より短くなってませんか?」
沙織は戸惑った。前回のビデオ通話は一週間前だったはずだ。
「いえ、切ってません...」
「そうですか?気のせいかな。でも確かに印象が変わったような...」
通話を終えた後、沙織は急いで鏡を見た。確かに髪が短くなっている。先週のビデオ通話では肩まであったはずの髪が、今は顎のラインまでしかない。十センチ以上短くなっていた。
しかし、美容院に行った記憶はない。自分で切った記憶もない。髪の毛が自然に短くなることなど、物理的にありえない。
「これは...」
震える手で、髪の毛端を触った。確実に短くなっている。手触りも、以前より軽い。これは幻覚ではない。物理的な変化だった。
慌ててスマートフォンで自撮りをした。画面に映る自分の髪は、確かに短い。しかし、一週間前の写真を確認すると、そこでも髪は短く写っていた。過去の記録まで書き換わっている。
日記アプリを開いた。毎日記録している子供との出会いの記録。その中に、見覚えのない記述があった。
「髪を切った。久しぶりに短くしたら、すっきりした気分になった」
沙織が書いた記憶のない文章だった。筆跡も、文体も自分のものだ。しかし、内容に全く覚えがない。まるで別人が自分の日記に書き込んだかのようだった。
さらに調べると、他にも変更されている記述があった。友人との会話の内容、食べた物の記録、見たテレビ番組の感想。どれも沙織の記憶とは異なっているが、確実に自分が書いたものだった。
「過去が変わってる」
呟いて、沙織は頭を抱えた。現在だけでなく、過去の記録まで改変されている。自分の人生そのものが、書き換えられつつある。
夕方、母親から電話があった。
「もしもし」
母親の声が聞こえた瞬間、沙織は安堵した。現実改変が進む中で、母親は変わらない存在だと思っていた。
「お母さん、沙織だよ」
しかし、電話の向こうで長い沈黙があった。
「...どちら様でしょうか?」
沙織の心臓が止まりそうになった。
「お母さん、沙織よ。娘の」
「申し訳ございませんが、うちには沙織という娘はおりません。お間違えではないでしょうか」
母親の声は丁寧だが、完全に他人を相手にする口調だった。26年間聞き続けた声なのに、そこには一片の親しみもない。
「お母さん...」
「本当に申し訳ございませんが、お間違いかと...」
電話は切れた。発信履歴を確認すると、確実に母親の番号にかけていた。しかし、母親は沙織のことを全く覚えていなかった。
電話を切った後、沙織はSNSの履歴を確認した。先月の投稿に、美咲との写真があった。カフェで撮った、笑顔の二人の写真。しかし、沙織にはその写真を撮った記憶がない。
写真の中の自分は、確かに沙織だった。服装も、表情も、全て本物に見える。しかし、その日の記憶が全くない。まるで別人の人生の写真を見ているかのような奇妙な感覚だった。
夜が深まると、不安は頂点に達した。現実改変の範囲が、自分の人生全体に及んでいる。記憶と記録の不一致が、アイデンティティの根幹を揺るがしていた。
「私は本当に田村沙織なの?」
鏡を見つめながら、疑問が湧いてくる。短くなった髪、見覚えのない日記、記憶にない写真。どれも確実に自分のものだが、記憶と一致しない。
もしかしたら、記憶を失っているのは自分の方かもしれない。子供の現象は関係なく、何らかの病気で記憶障害を起こしているのかもしれない。
しかし、子供の存在は確実にある。毎晩現れ、質問を繰り返す。そして間違えるたびに現実が変わる。これは病気では説明できない現象だった。
午前零時を過ぎて、沙織はネットで検索を始めた。
「現実 変化 超常現象」「記憶 改変 怪談」「まちがいさがし 都市伝説」
様々なキーワードで調べた結果、いくつかの都市伝説サイトで似たような話を発見した。
『まちがいさがしの子』
ある掲示板の書き込みだった。
「夜中に子供が現れて、違いを見つけろと言ってくる。間違えるたびに現実が変わって、最後は自分が消える。同じ毎日を送ってる人に現れるらしい」
別の書き込みもあった。
「友達がこの話をしてたけど、次の日からその友達と連絡が取れなくなった。まるで最初からいなかったみたいに、みんなその友達のことを忘れてる」
沙織の背筋に冷たいものが走った。自分が体験している現象と、完全に一致している。これは都市伝説ではない。実在する現象だった。
さらに調べると、対処法らしきものも書かれていた。
「正しい答えを見つけるか、完全に無視するかしかない。でも、正しい答えを見つけた人はいない」
「無視するのも難しい。答えなければならないという強迫観念にとらわれる」
午前二時が近づいた。沙織は覚悟を決めて、デスクの前に座った。今夜で九回目の対話になる。設定資料によれば、第三段階に突入する段階だった。
午前二時ちょうど。
子供が現れた。
今までで最も鮮明な姿だった。顔の表情もはっきりと見える。七歳くらいの中性的な顔立ちで、古い時代の子供服を着ている。手に持ったノートは、昔の学習帳のような装丁だった。
しかし、その目には生気がなかった。人形のような無表情で、感情を読み取ることができない。
「昨日と今日の違いを見つけて」
いつもの質問だった。しかし今夜は、沙織にも準備があった。部屋の隅々まで観察し、可能な限り記録を取っていた。
「写真立て」
沙織は答えた。
「昨日まで家族写真が飾ってあったけど、今日は一人の写真になってる」
実際に、デスクの上の写真立ての中身が変わっていた。両親と一緒に撮った家族写真が、沙織一人の写真に変わっている。
子供は首を振った。
「違うよ」
その瞬間、部屋が微妙に揺れたような気がした。壁の色が、わずかに変わったような感覚があった。
子供の姿が消えた後、沙織は部屋を調べた。
家族写真は、確かに一人の写真に変わっていた。しかし、それ以外にも変化があった。本棚の本が数冊消えており、代わりに見たことのない本が並んでいる。壁のポスターも、以前とは違う物になっていた。
最も恐ろしい変化は、スマートフォンの中にあった。
連絡先から、何人かの友人の名前が消えていた。メッセージの履歴も、一部が削除されている。まるで、その人たちとの関係が最初からなかったかのように。
沙織は震えた。
人間関係まで改変されている。この調子では、いずれ自分の存在そのものが消されてしまうかもしれない。
窓の外を見ると、街の景色も微妙に変わっていた。見慣れた建物の配置が異なり、道路の幅も違う。自分の住んでいる街が、別の街に変わりつつある。
「もう逃げられない」
沙織は絶望を感じた。現実改変の範囲は拡大し続け、もはや自分の人生全体を飲み込んでいる。毎晩続く恐怖の対話は、確実に沙織という存在を削り取っていた。
明日の夜には、十回目の質問が待っている。そして、さらなる現実の崩壊が始まるのだろう。
時計の針は、午前三時を指していた。
沙織の長い夜は、まだ終わらない。
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