第3話 エスカレート

三日目の夜。


沙織はデスクの前に座り、昨夜記録した日記を読み返していた。子供の外見、会話の内容、そして翌朝発見した物の配置の変化。客観的な記録のはずなのに、読み返すたびに現実感が薄れていく。


「本当に起きたことなのかな」


呟きながら、沙織はコーヒーカップを見つめた。現在は左側に置かれている。昨夜の記憶では、これは右側にあったはずだった。しかし、その記憶さえも曖昧になりつつある。


三か月間の引きこもり生活で、時間の感覚が麻痺している。昨日と一昨日の区別がつかず、先週と今週の境界も曖昧だ。毎日が同じことの繰り返しで、変化のない日常に意識が溶けていく。


午後の仕事は、いつもより集中できなかった。クライアントからの新しい修正依頼に取り組みながらも、頭の片隅で子供のことを考えてしまう。「違いを見つけて」という声が、作業中にふと蘇る。


夕方、久しぶりに大学時代の友人からLINEが届いた。


「沙織ちゃん、元気?今度みんなでお花見でもしない?」


画面を見つめながら、沙織は返事に困った。「元気」と答えるのは嘘になる。しかし、本当の状況を説明することもできない。子供の幽霊が現れるなどと言えば、心配されるか、精神的な病気を疑われるだけだ。


「忙しくて、今度にしようか」


当たり障りのない返事を送って、スマートフォンを置いた。友人との距離は、どんどん広がっている。以前なら気軽に会える関係だったのに、今では簡単な返事をするのも億劫だ。


夜が深まると、沙織の不安は増大した。今夜も子供は現れるのだろうか。そして、再び現実が変わるのだろうか。午前二時が近づくにつれ、心臓の鼓動は早くなる。


午前一時五十八分。


沙織は日記アプリを開き、準備した。今夜の出来事も、可能な限り詳細に記録するつもりだった。客観的な記録があれば、自分の正気を保つことができるかもしれない。


午前二時ちょうど。


「昨日と今日の違いを見つけて」


声が聞こえた。


今度は、より鮮明だった。沙織は振り返ると、子供がそこに立っていた。前回よりもはっきりとした輪郭で、顔の表情も少し見える。無邪気な笑顔を浮かべている。


「また来たのね...」


沙織の声は震えていた。恐怖は日ごとに増している。現実が変わり続ける恐ろしさが、心の奥に根を張っていた。


「昨日と今日の違いを見つけて」


子供は同じことを繰り返した。手に持ったノートを見つめながら、まるで宿題を出すかのような口調だった。


沙織は恐る恐る部屋を見回した。昨日気づいた変化を思い出そうとする。コーヒーカップは左側、ペンは逆向き、書類は順番が変わっている。今日は何が違うのか。


必死に記憶を辿る。何か、何でもいいから見つけなければ。子供の視線が自分に注がれているのを感じ、答えを急かされているような焦燥感に駆られる。


時計を見ると、午前二時二分だった。昨夜より二分遅れている。


「時計...」


震え声で答えた。


「昨日の夜は午前二時ちょうどだったけど、今日は二分...二分遅れて現れた」


子供は首を振った。


「違うよ」


その瞬間、子供の姿がより鮮明になった。顔の細部も見えるようになり、七歳くらいの中性的な顔立ちが現れる。服装は古風で、昭和初期の子供が着るような質素な服だった。


そして消えた。


翌朝、沙織が最初に確認したのは時計だった。


部屋の壁に掛けられた時計が、二分進んでいた。正確な時刻を知るためにスマートフォンで確認すると、壁時計は確実に二分早い。昨夜まで正確だったはずの時計が、ずれている。


しかし、それだけではなかった。


デスクの上の変化は、前日よりも顕著だった。ペン立ての中身が入れ替わっており、引き出しの中の書類も順番が変わっている。キーボードとマウスの位置も微妙にずれていた。


さらに異常だったのは、冷蔵庫の中身だった。昨日購入したコンビニ弁当が、違う種類に変わっている。からあげ弁当を買ったはずなのに、幕の内弁当になっていた。


「これはおかしい」


沙織は声に出した。物の配置が変わるのは、まだ理解できる。しかし、購入した商品が別の物に変わるのは現実的ではない。


しかし、レシートを確認すると、幕の内弁当と記載されていた。自分の記憶が間違っているのか、それとも記録まで変わっているのか判断できない。


午後、沙織はネットで検索を始めた。「幽霊 子供 質問」「現実 変化 超常現象」「記憶 改変」様々なキーワードで調べるが、決定的な情報は見つからない。


都市伝説やオカルトサイトには、似たような話がいくつかある。しかし、どれも信憑性に欠け、解決策も書かれていない。医学サイトでは、幻覚や妄想の症状について説明されているが、物理的な変化を伴う現象は載っていない。


夕方、母親から電話があった。


「沙織、最近声が変だけど大丈夫?」


母親の指摘に、沙織は戸惑った。自分では変わった意識はない。


「どんなふうに?」


「なんというか、ぼんやりしてるというか...疲れてるの?」


確かに疲れている。しかし、それ以上に混乱している。現実と記憶の境界が曖昧になり、何が真実なのかわからなくなりつつある。


「ちょっと忙しくて」


「体調崩したら、すぐに病院に行きなさいよ。一人暮らしだから心配で」


電話を切った後、沙織は鏡を見た。確かに顔色が悪い。頬がこけて、目の下にクマができている。三か月間の引きこもり生活に加えて、ここ数日の睡眠不足が体に現れていた。


「病院に行くべきかな」


しかし、医師に何と説明すればいいのか。子供の幽霊が現れて、現実が変わっていると言えば、精神科を紹介されるだけだろう。


四日目の夜、沙織は覚悟を決めた。今夜はより詳細に観察し、可能であれば子供と会話を続けてみる。何かしらの手がかりが得られるかもしれない。


午前二時、子供が現れた。


今度は完全に鮮明な姿だった。七歳くらいの性別不明の子供で、古い時代の服を着ている。手に持ったノートは、昔の学習帳のような表紙だった。


「昨日と今日の違いを見つけて」


「あなたは誰?何がしたいの?」


沙織は震え声で質問した。子供は首をかしげた。


「違いを見つけて」


同じことしか言わない。会話は成立しない。子供の無表情な顔が、より一層恐ろしく感じられる。


沙織は慌てて部屋を見回した。何か変化を見つけなければ。この状況から逃れるためには、答えるしかない。


「本棚...」


混乱した頭で必死に考える。昨日と今日、何が違うのか。


「昨日は本棚が左側にあった気がするけど、今日は右側に...見える」


記憶が曖昧で確信が持てない。恐怖で判断力が鈍っている。


子供は首を振った。


「違うよ」


そして消えた。


翌朝、沙織は愕然とした。


本棚が、実際に右側に移動していた。


重い本棚を一人で動かすのは困難なはずだ。しかし、昨夜の嘘が現実になっている。さらに、本棚の中の本の配置も変わっていた。大学時代の教科書が消えて、読んだことのない小説が並んでいる。


「これは現実じゃない」


沙織は呟いた。しかし、触れることができる物理的な変化だった。幻覚や妄想では説明できない現象が、確実に起きている。


部屋の中を詳しく調べると、他にも変化があった。


壁のシミの形が変わっている。カーテンの色が微妙に違う。窓から見える景色も、少し様子が違う。向かいの建物の看板が、別の会社名に変わっていた。


沙織は恐怖を感じた。変化の範囲が、部屋の外にまで広がっている。このまま続けば、自分の知っている世界が完全に別の物になってしまうかもしれない。


このまま続けば、自分という存在そのものが消えてしまうかもしれない。しかし、逃げることもできない。子供は毎晩現れ、質問を続ける。答えなければならないという強迫観念に支配され、拒否することができない。


夜が来るたびに、絶望感が深まっていく。


午前二時の訪問者との、五回目の対話。それは、さらなる現実の崩壊を意味していた。

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