第2話 姿の出現

翌日の午後、沙織は重いまぶたを開けた。


時計は午後一時を指している。昨夜の出来事が夢だったのか現実だったのか、境界が曖昧だった。子供の声、「違いを見つけて」という言葉。思い出すたびに、背筋に冷たいものが走る。


ベッドから起き上がり、カーテンの隙間から外を覗いた。まばゆい日差しが差し込んで、目を細める。三か月ぶりに見る昼間の光は、まるで異世界のものに感じられた。通りを歩く人々、車の往来、鳥の鳴き声。すべてが自分とは無関係な世界の出来事のように思える。


「ちゃんと寝なきゃ」


呟いて、沙織はカーテンを閉めた。日光は彼女にとって、もはや体内時計を狂わせるノイズでしかない。夜型の生活に完全に適応してしまった体は、昼間の光を拒絶していた。


キッチンで冷蔵庫を開けると、昨日と同じ光景が広がっていた。ペットボトルの水と、期限切れのサンドイッチ。変わったものといえば、新しく届いたコンビニ弁当が一つ追加されているだけ。


「今日は何を食べようか」


選択肢のない問いかけだった。コンビニ弁当を電子レンジで温めながら、沙織は昨夜のことを思い返した。あの声は確実に聞こえた。しかし、誰かが部屋に侵入した形跡はない。鍵もかかっていたし、窓も閉まっていた。


電子レンジが鳴り、機械的な音が静寂を破った。取り出した弁当は、湯気を立てているものの、食欲をそそる匂いはしない。最近は味覚も鈍っている。何を食べても同じような味に感じられ、栄養補給のための作業になっていた。


パソコンの前に座り、昨夜中断した企画書を開いた。クライアントからの修正指示が、メールで三件届いている。どれも些細な変更だが、完璧を求める姿勢が文面から伝わってくる。


「もう少し温かみのあるデザインに」

「ターゲット層により訴求力のある色彩で」

「全体的にもう少しインパクトを」


曖昧な指示に、沙織は慣れ親しんでいた。在宅ワークを始めてから、こうした抽象的な要求に応えることが日常になっている。クライアントの真意を推測し、複数のパターンを作成し、再び修正を求められる。終わりのない循環だった。


午後の時間は、いつものように淡々と過ぎていく。修正作業、新しい案件の打ち合わせ、見積もりの作成。画面の中の数字と文字だけが現実で、外の世界は遠い存在だった。


夕方になると、母親から電話があった。着信音が鳴るたび、沙織の心臓は跳ねる。人との会話に慣れていない体は、電話という行為自体をストレスと認識していた。


「もしもし、沙織?元気にしてる?」


母親の声は、いつものように心配そうだった。


「うん、元気だよ」


嘘だった。元気ではないし、健康でもない。しかし、正直に話したところで解決するわけではない。母親を心配させるだけだ。


「ちゃんと食べてる?最近痩せたんじゃない?」


「大丈夫、ちゃんと食べてるよ」


これも嘘だった。まともな食事をしたのは、いつだったか思い出せない。


「たまには外に出なさい。太陽の光を浴びないと、体に悪いわよ」


「うん、今度出かけるよ」


出かける予定はなかった。外の世界は、もはや沙織にとって未知の領域だった。


電話を切った後、部屋は再び静寂に包まれた。母親との会話は、現実世界との最後の接点だった。しかし、その接点さえも希薄になっている。言葉を交わしているのに、心は通っていない。表面的な安否確認だけで、本当の自分を伝えることはできない。


夜が深まるにつれ、昨夜の記憶が鮮明になってくる。子供の声、「違いを見つけて」という問いかけ。あれは本当に幻聴だったのだろうか。ストレスや疲労が原因なら、今夜は聞こえないはずだ。


午前二時が近づくと、沙織の鼓動は早くなった。昨夜と同じ時間。同じ状況。もし再び声が聞こえたら、それは幻聴ではない。何か別の現象だ。


午前二時三分。


静寂が部屋を支配していた。パソコンのファンの音だけが、小さく響いている。沙織は息を殺して、耳を澄ませた。


午前二時五分。


何も起こらない。昨夜の出来事は、やはり疲労による幻覚だったのかもしれない。安堵の気持ちが胸に広がりかけた時だった。


「昨日と今日の違いを見つけて」


声が聞こえた。


昨夜と同じ、子供の声だった。しかし今度は、より鮮明に、よりはっきりと聞こえた。


沙織は振り返った。


そこに、子供がいた。


薄ぼんやりとした、輪郭の曖昧な姿だった。年齢は七、八歳くらいに見える。性別は判然としない。顔の細部は見えないが、確実にそこに立っていた。手には小さなノートのようなものを持っている。


「昨日と今日の違いを見つけて」


子供は再び同じことを言った。声は無邪気で、悪意を感じさせない。しかし、その存在自体が現実の法則を逸脱していた。


沙織の口は渇いていた。声を出そうとしても、音にならない。これは夢だ。きっと夢に違いない。しかし、夢にしては感覚があまりにもリアルだった。


「違いを...見つける?」


やっと声を絞り出した。子供は静かに頷いた。


沙織は必死に記憶を辿った。昨日と今日の違い。部屋の中で何が変わったのか。デスクの上、キッチン、ベッド周り。すべてが同じように見える。しかし、何か微細な変化があるはずだ。


「コーヒーカップ」


沙織は思いついたことを口にした。


「昨日はマグカップがデスクの左側にあったけど、今日は右側にある」


実際には、そんな記憶はなかった。適当に答えただけだった。しかし、子供に何かを答えなければならないという強迫的な思いがあった。


子供は首を振った。


「違うよ」


その瞬間、子供の姿が薄れて消えた。まるで霧のように、輪郭が曖昧になって空気に溶けていく。


残されたのは、静寂と沙織だけだった。


心臓が激しく鼓動している。手のひらは汗でびっしょりと濡れていた。あれは確実に現実だった。幻覚や夢ではない。何かが、この部屋に現れた。


沙織は震える手でスマートフォンを取った。時刻は午前二時十二分。検索窓に「子供の幽霊」と入力しかけて、止めた。検索したところで、何がわかるというのか。


代わりに、昨夜からの出来事を日記アプリに記録した。日時、状況、子供の外見、会話の内容。客観的な記録を残すことで、自分の正気を保とうとした。


午前三時を過ぎて、ようやく眠気が襲ってきた。ベッドに横になりながら、沙織は明日のことを考えた。あの子供は、また現れるのだろうか。そして、本当の「違い」とは何なのか。


翌朝、午後一時に目覚めた沙織は、まずデスクを確認した。


コーヒーカップの位置が変わっていた。


昨夜は確実に右側にあったマグカップが、左側に移動している。


それだけではなかった。


ペンの向き、書類の重なり順、キーボードの角度。微細だが、確実に配置が変わっている。まるで誰かが、一つずつ丁寧に位置をずらしたかのようだった。


沙織は膝から力が抜けるのを感じた。


現実が、変わり始めている。

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