第5話 恐怖の向こう側

十二回目の間違い。


沙織は手帳に記録された数字を見つめていた。子供が現れ始めてから二週間が経過し、彼女の現実は根底から変わってしまった。もはや以前の世界がどのようなものだったのか、確信を持って思い出すことができない。


部屋の中は、もはや沙織が知っているものとは別の空間になっていた。家具の配置、壁の色、窓の位置まで微妙に変わっている。本棚には見覚えのない本が並び、写真立てには知らない人物の写真が飾られていた。


最も恐ろしいのは、それらの変化に慣れ始めている自分だった。毎朝目覚めるたびに何かが変わっているのが当たり前になり、もとの世界への執着も薄れている。アイデンティティの境界線が曖昧になり、自分が誰なのかさえ不安になる瞬間があった。


午後、大学時代の友人・美咲から久しぶりに連絡があった。


「沙織、今度時間ある?みんなでお花見しない?」


LINEの通知音に、沙織は複雑な感情を抱いた。美咲は確かに大学時代の親友だった。しかし、最近の記憶と記録の食い違いで、彼女との関係についても確信が持てなくなっている。


「美咲...私たち、親友だよね?」


「え?何それ、変なこと聞くね。当たり前でしょ」


「大学で一緒に写真部にいたよね?」


「写真部?沙織は文芸部だったじゃない。私が写真部だったのよ」


沙織の記憶では、自分が写真部で美咲が文芸部だった。しかし、美咲は逆だと言っている。どちらが正しいのか、もはやわからない。


「そう...だったね」


会話を続けるのが辛くなり、適当な理由をつけて電話を切った。友人との記憶さえ曖昧になり、過去の自分がわからなくなっている。


夕方、ふと思い立ってクローゼットを開けた。服の並び方が変わっているのは予想していたが、さらに驚くべき発見があった。


大学時代の写真アルバムが見つからない。


必死に探したが、どこにもない。代わりに、見覚えのないアルバムがあった。表紙には「高校時代の思い出」と書かれているが、中身を見ても記憶にない写真ばかりだった。


写真の中の自分は確実に沙織だった。しかし、一緒に写っている人物や場所に見覚えがない。修学旅行らしき写真、文化祭の写真、友人との記念写真。どれも楽しそうな表情を浮かべているが、その瞬間の記憶が全くない。


「私の人生が書き換えられてる」


震え声で呟いた。過去の記録だけでなく、記憶そのものが改変されている。本当の自分の人生がどのようなものだったのか、もはや判断できない。


机の引き出しから日記を取り出した。毎日の出来事を記録しているはずのノートだが、内容の半分以上に見覚えがない。自分の筆跡で書かれているが、体験した記憶のない出来事ばかりだった。


「今日は久しぶりに外出して、写真を撮った。街の変化を記録するのが楽しい」


こんな記述があるが、沙織は三か月間外出していない。しかし、日付を確認すると先週のものだった。まるで並行世界の自分の日記を読んでいるかのような奇妙な感覚だった。


部屋の隅に、見たことのないカメラバッグがあることに気づいた。中には一眼レフカメラと複数のレンズが入っている。高価な機材で、写真に本格的に取り組んでいる人の装備だった。


手に取ると、体が自然に操作方法を覚えていた。大学時代に使っていたカメラの感触が蘇る。しかし、このカメラを購入した記憶はない。いつの間に、こんな高価な機材を揃えたのか。まるで現実改変によって、もう一人の自分の持ち物が現れたかのようだった。


カメラの液晶画面を確認すると、数百枚の写真が保存されていた。全て沙織が撮影したものらしく、構図や技術も上達の過程が見て取れる。街の風景、人物のスナップ、自然の写真。どれも情感豊かで、写真への愛情が感じられる作品だった。


しかし、これらの写真を撮った記憶が全くない。まるで別人の作品を見ているようだった。


夜が深まると、いつものように恐怖が襲ってきた。午前二時の訪問者が、今夜も現れる。十三回目の質問が待っている。


午前一時五十八分。


沙織はデスクの前に座り、覚悟を固めた。今夜で決着をつけなければならない。このまま続けば、完全に消去されてしまう。


もう逃げ場はない。子供の質問に答え続けるしか道はない。しかし、何を答えても間違いだと言われる。この状況から抜け出す方法が本当にあるのだろうか。


午前二時ちょうど。


子供が現れた。


今までで最も鮮明で、最も恐ろしい姿だった。七歳くらいの顔立ちは人形のように整っているが、目に宿る感情は読み取れない。古い時代の服装で、手に持ったノートはボロボロになっている。


しかし今夜は、何かが違った。子供の周りに薄い光のようなものが見える。存在感がより強く、現実への影響力も増している感じがした。


「昨日と今日の違いを見つけて」


いつもの質問だった。しかし今回は、沙織にも覚悟があった。


「写真」


沙織は答えた。


「昨日まで部屋にはカメラなんてなかったけど、今日は一眼レフカメラがある。それに...」


沙織は一呼吸置いた。


「昨日までの私は写真なんて撮らなかったけど、今日の私は写真を撮る人になってる」


子供は首を振った。


「違うよ」


その瞬間、沙織は確信した。この子供の質問に正解はない。何を答えても「違う」と言われ、現実が改変される。これは質問ではなく、確実な破滅への道筋だった。


「じゃあ、教えて」


沙織は子供を見据えた。


「本当の答えは何?昨日と今日の、本当の違いは何なの?」


子供は初めて表情を変えた。微かに笑みを浮かべた。


「昨日の私は本当の私じゃなかった」


沙織は震え声で続けた。


「今日の私も本当の私じゃない。毎日少しずつ変わって、もう本当の私がわからなくなった」


子供の笑みが深くなった。


「私自身が...私自身が間違いなの?」


その瞬間、子供は満面の笑みを浮かべた。


「正解」


初めて聞く言葉だった。沙織の心臓が激しく鼓動する。


「でも」


子供は続けた。


「正解したから何かが変わるわけじゃないよ。間違いは間違いのまま。消えるのは同じ」


子供の姿が輝きを増した。沙織の体も、徐々に透明になり始めている。現実から消去される過程が始まっていた。


恐怖が頂点に達した時、沙織の頭に一つの記憶が蘇った。


大学時代、写真部での記憶。友人たちと撮影に出かけた日々。カメラのファインダー越しに見た世界の美しさ。そして、プロの写真家になりたいという夢。


「そうだった...」


沙織は呟いた。


「私は写真家になりたかった。でも諦めて、毎日同じことを繰り返すようになった」


体の透明化が止まった。子供の表情が変わる。


「毎日同じ部屋で、同じ仕事で、同じ時間に寝て起きて...本当の私じゃない生活を続けてた」


子供は静かに見つめている。


「間違いは私の生活。本当の私は...」


沙織は立ち上がった。部屋の隅にあるカメラバッグを見つめる。


「本当の私は、写真を撮る人。毎日新しい発見をして、違うものを見つける人」


子供の姿が、ゆっくりと薄れ始めた。


「毎日ちがうことをするんだね」


子供は最後にそう言って、消えた。


部屋は静寂に包まれた。沙織の体は元の状態に戻っている。しかし、心の中で何かが大きく変わっていた。


明日から、新しい生活を始めよう。


カメラを手に、外の世界に出ていこう。


長い夜が、ようやく明けようとしていた。

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まちがいさがしの子 白毛 @tanutarou

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