喚き空殻、鴻鵠の空

桜无庵紗樹

喚き空殻、鴻鵠の空

喚き空殻わめきからがら鴻鵠の空こうこくのそら


 冬の空は乾いていた。雲一つないくせに、光は鈍く、空の青さはどこか痛々しい。

 僕は駅前のベンチに座り、行き交う人波を眺めていた。何かを待っているふりをして、実際には何も待っていない。目的もなく、ただ座っているだけだ。

 ポケットの奥で、古いストップウォッチが眠っている。針は止まっている。二年前の春から、ずっと。


 あの日、僕は負けた。

 僕の夢は、どこまでも高く舞い上がるはずだった。けれど、風は吹かなかった。いや、吹いていたのかもしれない。ただ僕が羽ばたけなかっただけだ。

 あれから僕は空を見上げることを避けてきた。見れば、胸の奥が軋むからだ。


 ──だから、彼女を見た瞬間、息が詰まった。


 駅前の雑踏を、彼女は歩いていた。長い髪を後ろで束ね、薄い灰色のコートを着ている。見覚えのある後ろ姿。忘れるはずがない。

 僕の胸の奥の空洞が、喚いた。


 高校時代、彼女は陸上部のマネージャーだった。僕は長距離の選手で、彼女はいつもタイムを計ってくれた。

 彼女がストップウォッチを止める瞬間、その数字が僕の価値を決めていた。遅ければ悔しくて、速ければ嬉しかった。ただそれだけのことが、生きる理由になっていた。


 最後の大会、僕は自己ベストを出せなかった。風向きも、コンディションも、何一つ悪くなかった。なのに足が動かなかった。

 レース後、悠は何も言わなかった。ただストップウォッチを僕に渡して、背を向けた。

 その背中が、僕の中で最後の景色になった。


 卒業後、連絡は途絶えた。

 僕は大学に進んだが、走ることをやめた。走らない僕に、価値はないと思った。授業とバイトを繰り返すうち、日々は色を失い、気づけば何も待たない人間になっていた。


 彼女は雑踏の中で立ち止まり、スマホを見ていた。

 その横顔を、僕は少し離れた場所から見つめていた。話しかけようと思えばできた。でも、声が出なかった。

 彼女はやがて歩き出し、信号を渡って駅ビルの中へ消えていった。


 残された僕は、ふと空を見上げた。

 鴻鵠──高く飛ぶ鳥。その姿を昔はよく夢に見た。あれはただの比喩だったのか、それとも本当に空の向こうまで行ける気がしていたのか。

 今の僕は、空を見上げても羽ばたけない空殻だ。中身を失い、ただ風に晒されているだけだ。


 それでも──僕は立ち上がった。


 翌日、古びた陸上競技場へ足を運んだ。

 冬の風が吹き抜けるトラックに人影はない。観客席も無人で、鳥の鳴き声だけが響いている。

 僕はポケットからストップウォッチを取り出した。針は止まったまま。

 でも、指が自然に動いた。リセットボタンを押し、スタートを切る。


 足は重い。肺はすぐに悲鳴を上げる。それでも一周、また一周と走った。

 息が白く途切れ、視界が滲む。

 ──それでも止まらなかった。止まりたくなかった。


 十周目、全身が鉛のようになったとき、ふいに観客席から声がした。


「……久しぶり」


 振り向くと、悠がいた。あの日と同じ、ストップウォッチを首から下げて。


「なんで……」

「昨日、駅で見た。声かけようと思ったけど、あなた、逃げそうだったから」


 悠は階段を降り、僕に近づいてきた。

「まだ走れるんだね」

「……走れてない。昔みたいには」

「でも、走ってるじゃない」


 悠は僕の手からストップウォッチを受け取り、残り時間を見た。

「タイムは……まあ、まだまだ。でもいい顔してる」


 僕は答えられなかった。胸の奥が軋む代わりに、熱く満ちていくのを感じた。


 夕暮れ、悠と並んで帰った。

 空は茜色から群青へと変わり、やがて夜の底に沈もうとしていた。

「また、ここで走る?」

「……ああ」


 その言葉を口にした瞬間、止まっていた針が音もなく動き出した気がした。

 喚いていた空殻は、少しだけ満たされていく。

 見上げれば、鴻鵠の空がある。遠く、高く、届かないほどの空が。


 僕は、また走り出す。

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喚き空殻、鴻鵠の空 桜无庵紗樹 @Sakuranaann_saju

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