第十二節 雷鳴②

 夏の嵐の中で、歌が聞こえる。

 風はごうごうと倉庫のトタンを揺らした。雨は暗雲から矢のように放たれる。

 雨の中で、風の中で、歌が聞こえる。

 「こういうとき」に、いつも聞こえてくる歌。

 それは「彼」が幼いころに聞いたわらべ歌。歌詞の一つも覚えていないが、その節だけは覚えている。ボロ長屋で虐げられていた娘、「彼」に己の弟の影を重ねていた彼女がときどき口にしていた歌だ。

 雨が歌う、風が歌う、嵐が歌う。

 すべての音が、「彼」の耳元であの節に変わっていく。懐かしくもない、どことも知れぬ郷里の歌。彼女が現実から逃れるように歌っていた歌。

 空は黒く、「彼」の瞳と同じ色。

 月は見えず、光の届かない場所に、「彼」は立っている。

 その手に、人を殺すための武器を持って。


 波止場に並ぶ、倉庫の群れ。トタンの海の只中に、「鬼童子」は立っている。こんな嵐では人っ子一人やってきやしない。「鬼童子」が人を殺す夜は、大体がこんな夜だった。

 倉庫の壁を背にして、一人の女性が座り込んで震えている。三方を壁に囲まれて、唯一の退路には殺人鬼が立っている。これほどに絶望的な状況などそうありはせず、ゆえに彼女の手も足も震えに震え、もう逃げ出す機能が失われてしまっているのも無理のない話であった。

 そんな見るも哀れな彼女が、此度の「鬼童子」の獲物だった。大なり小なり娑婆には出せない黒い罪を持った人物であろうが、こうなっては子鼠とそう変わりない。


 「鬼童子」は、ゆっくりと銃を構える。いつでもこちらはお前のことを殺せるのだと見せつけて、無駄なあがきをさせないように。

 「こういうとき」、「彼」はあのときのカラスであり、野犬であり、猫であり、鬼であった。

 奪う側で、喰らう側で、殺す側であった。

 すなわちは、人という名の獣であった。


 照準を、女の額にあわせる。

 獣であれ、眉間を打ち抜けば即死するという。

 人であればどうなるか、充分に「彼」は知っている。


 引き金に指をかける。

 死の恐怖に女が絶叫する。

 その叫びを風と雨が打ち消していく。


 雨が歌う、風が歌う、嵐が歌う。


 命を奪うための鉛玉が飛びだす。

 その寸前、「彼」の体は後ろに引き戻される。


「えっ」


 まさに一瞬のことだった。

 見も知らぬ男性が、「彼」の肩を掴んでいた。

 男性は何かを叫んでいた。

 声は嵐で聞き取れない。

 ただ彼が、何をしようとしているのかはわかった。


 見も知らぬ男は、見も知らぬ女を助けようとしていた。


 だがそれは叶わないだろう。

 銃声が嵐の中に消えていく。

 名も知らぬ男が、雨の中に倒れる。

 その光景を、「彼」は唖然として見ている。


(なんて、こと)


 雨の中で、鬼は立ち尽くしていた。

 たった今自分が撃ち殺した男を見下ろして、呆然と。


 「彼」は信じられなかった。

 自分が予想外の人物を殺してしまったことではない。

 そんなことで今さら驚くようでは、「彼」は鬼の子などと呼ばれていない。


 見知らぬ男が、彼に関係のない女を助けようとしたことが、ただただ、「彼」には信じられなかったのだ。


 その光景は、「彼」にとってはまるで雷のようだった。事実、あまりのことに「彼」の頭は痺れて、まともに動かない。

(ありえない)

 風の中、「彼」の頭の中ではその言葉だけが反芻される。そんなこと、ありえるはずがない。そう思うたびに、さきほどの光景が繰り返される。


『俺たちは鬼だ。人を殺して飯を食う人でなしだ。だからお前はお前のために人を殺せばいいし、俺は俺のためにお前を使う』


 雨音の中、先日の中嶋とのやりとりが「彼」の耳元で蘇る。それは「彼」にとって、至極真っ当なことだった。当たり前のことだった。

 なぜならば、人は獣とそう変わらない。

 誰もが皆、自分のために誰かを食い物にして生きている。

 それが唯一、「彼」が信じられる理であったからだ。


(なら、いったい、これはなんだ)

 目の前に倒れ伏した男を、「彼」は凝視する。瞬きを忘れて渇いていくはずの目は、雨粒が潤した。

 男の息の根は、すでに止まっている。「彼」が無我夢中で撃ったところが悪かったのだろう。

 「鬼童子」の獲物だったはずの女は、すでに姿を消している。呆然と立ち尽くすだけの殺人鬼から逃れることは、子鼠でも容易い。

 つまり、男が試みたことは、成功したわけであった。

(本当に、信じられない)

 何度目かの呟きを、心の内で漏らす。頭の痺れが伝染したのか、「彼」の手から冷たい鉄の塊が滑り落ちる。たった今、目の前の男を殺した銃だ。

 そう、「彼」はこの男を殺した。ほとんど事故のような発砲でも、「彼」が殺したことに変わりはない。

 逆にいえば、あのときこの男が「彼」の肩を掴んでいなければ、彼は死ななかったはずだ。この雨で、「彼」でさえこの男のことに気がついていなかったのだから。

 だからこそ、「彼」には男のしたことが信じられない。「彼」はこの男の顔を知らない。女の関係者のことは事前に覚えさせられた。その行動も事前に学習済みで、誰も今日この場に現れるはずがない。ということは、この男は女の関係者ではないということだ。


 ならなぜ、男は女を助けようとしたのか。

 見ず知らずの他人を、命の危険も承知で。

 なんの得も、この男にはないというのに。


(わからない。何一つわからない)

 理解不能。意味不明。論理矛盾。自家撞着。

 その行動は、摂理に反する。

 なのに、どうしてか、それが――


「あ――ぁ、あぁ、あ」

 殺人鬼は、震える指で顔を覆う。今にも叫びだしたいのに、喉が震えて声が上手くでない。

 遠雷が、「彼」の影を浮かび上がらせる。前に伸びた大きな影は、まるでがらんどうの洞窟のよう。

 一瞬ののち、轟音が「彼」の鼓膜を震わせる。雷鳴の中、耳の内で、がらがらと何かが崩れる音がした。

 それは、「彼」がいつの日か獲得した一つの真理。「彼」の心を覆い、今の今まで崩れぬようにと保ってきた巌の掟が崩れていく音であった。


 殺し損ねた女を追わなければならない。そんなことはわかっている。しかしどうしても、「彼」の足は動かない。

 中嶋はきっと、近くにいる。遅かれ早かれ、「彼」の失敗は明るみにでる。それを中嶋がどうみるか、「彼」にはよくわかっている。だが全身が固まってしまって、指先一つも満足に動いてくれない。


 時間をかけて、きしむ背を伸ばす。下を向いていた顔を上げる。顔を覆っていた手を引きはがす。

 空には暗雲。月は見る影もなく。

 それでも「彼」は、手を伸ばす。

 震える指が、月の姿をなぞる。


 嵐の中で、笑い声が聞こえる。

 人知れず、「彼」自身知覚しないまま、「彼」は笑っていた。狂気じみて、しかし水の底に月を見つけた少年のような笑みだった。

 雨に笑う、風に笑う、嵐に笑う。

 何がそんなにおかしいのか、「彼」自身わからないまま。


 そして嵐の中、「彼」の前に黒い影が現れる。その手に持ったドスからは、雨と混じった血の赤がしたたっている。

 すなわちそれは、もう一人の鬼。中嶋だった。

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