第十二節 雷鳴①
昼間の熱を含んだ空気が、夕日に赤く染まっていく。
ジワジワと油を熱するようだった蝉の声は、いつの間にか種類が変わり、カナカナと涼しげに黄昏時を告げていた。赤から紺へと色を替えていく空の中で、橙に色づいた入道雲が、青年になった「彼」を見下ろしている。
中嶋の元にきて、六年。「彼」の齢は、二十を超していた。
中嶋から殺せと命じられた者を殺して、殺して、殺して。躊躇も、情も、交渉の余地もなく殺して。闇の中を駆け抜けるように、「彼」の十代の時間は過ぎていった。
中嶋の属する香津屋一家は、「彼」が中嶋の元に来るよりもずいぶん前に、大規模な跡目争いが勃発していたらしい。中嶋が組に入ったのは、そのあたりのことだったそうだ。
跡目争いの際、今の香津屋一家の親分である須藤の兄弟分、嶋野に声をかけられて組に入った中嶋は、須藤と対立していた跡目候補を次々と襲撃していった。そのドスについた血の数は数えきれず、香津屋一家において、彼は殺し屋と恐れられている。
中嶋を香津屋一家に引き入れた嶋野は、兄弟分である須藤に心酔している。跡目争いのときも、是が非でも須藤を親分にしようと中嶋を使ったのだ。
そして今度はその須藤を政界へ押し上げようと、嶋野はやっきになっているのだそうだ。そのために政界の人間や華族と手を結び、彼らにとって不都合な人間を処理するため、また中嶋に声をかけたのだった。
その中嶋が「彼」を拾い、今日に至るというわけだ。火事で身元のはっきりしない「彼」は、使い勝手がよかったのだろう。もっともここまでの話のうちどこまでが本当の話なのかは、「彼」にはわからなかったし、どうでもいいことだったが。「彼」は食うのに困らないのであればそれでよかったし、そのために今日もここに足を運んだのであった。
石造りの鳥居をくぐって、青年は神社へと向かう。今日は祭りの日なのだろう。参道の脇に並んだ縁日に、たくさんの人が群がっている。笑いあう人々の声は、彼にとってはまさしく他人事であった。
正直なところ、「彼」はこういうところで彼らの「仕事」の話をするのはどうかとも思っていた。だが皆が祭りの陽気に当てられているのを見ると、きっと誰も彼らの話など耳を傾けまいと、少し納得したのだった。
石畳の参道を途中でそれて、「彼」は祭りの賑わいから少し離れたところにある大きな石へと歩みを進めた。そこには、「彼」を呼び出した中嶋の姿があった。
中嶋と出会った当初、「彼」は中嶋と同じ部屋で寝泊りをして、ときどき中嶋が住処をかえるときも共に引っ越しをしていた。しかし数年前からは中嶋が持っていた部屋の一つを借り受け、一人で暮らすようになっていた。
この日の中嶋は、常とは少し様子が違っていた。いつもまとっている抜き身の刃のような雰囲気が消えており、どこかぼんやりとしている。「彼」が向かってくるのにも気がつかないのか、じっと縁日のほうを見つめていた。
何を見ているのだろうか。歩みを進めながら、「彼」はその視線の先を見ようと振り返った。そこにいたのは、なんのことはない、じゃれあう二人の子どもだった。
中嶋が何を思ってそんなものを見ているのか、「彼」にはさっぱりわからなかった。
もしかして、酒でも飲んだのだろうか。「彼」はいぶかしんだ。中嶋は下戸だ。下戸なのに、よく酒を飲む男だった。
何はともあれ、今日「鬼童子」は「仕事」の話をしにきたのだ。とりあえず正気に戻ってもらわないと困る。そう思って、「彼」は中嶋に声をかけた。
中嶋と簡素に「仕事」の話を済ませると、彼はたばこの煙をくゆらせて、「鬼童子」に問うた。
「お前、今まで自分が何人殺してきたか覚えているか」
「鬼童子」は首を横に振る。そんなもの覚えているはずがない。モズが自分の立てた早贄をすべて覚えているのではないのと同じだ。中嶋は続けて問う。
「お前は、なんのために人を殺す」
唐突な質問だ。しかし、「鬼童子」の中で、そんなものの答えなど決まっていた。
「自分のためだ」
淡々と、「彼」は答える。
人を殺すことに悲しみはない。情熱も、怒りも、恨みもない。それと同等に、「彼」は人の命を奪うことに特段喜びも感じていない。あるのは代謝によって吐き出される熱を孕んだ息と、筋肉の流動。牙の代わりに振るわれる鉄の匂いだけだった。
「鬼童子」は、己が生きていくために必要な、当たり前の作業として人を殺していた。それ以外に特別な理由などない。自分以外のために人を殺すなんて、そんなのはただただ無駄な行為だ。
「ああ、それでいい。俺たちみたいなのには、それが正しい」
中嶋は深くたばこを吸うと、白い煙を中に吐き出した。煙はすでに暗くなった空へと登っていく。
「俺たちは鬼だ。人を殺して飯を食う人でなしだ。だからお前はお前のために人を殺せばいいし、俺は俺のためにお前を使う」
中嶋の言葉は、「鬼童子」にはこう聞こえた。つまるところ、「鬼童子」は中嶋にとって刃と同じなのだと。人を殺すための道具として、彼は「鬼童子」を使っているのだ。
それはすなわち、中嶋にとって「鬼童子」が「使えないモノ」になったら、彼は「鬼童子」を切り捨てるということだ。少なくとも、「彼」はそういうことだと受け取った。
話は終わり、二人は縁日の列を横目に鳥居へと歩いていく。色とりどりの縁日の中、ふと「彼」の目にとまるモノがあった。
それは、何匹もの金魚が泳ぐ大きな桶だった。「彼」の指の一関節分ほどしかない大きさの金魚を、子どもが針金の輪に和紙が貼られたポイで掬おうとしている。
その桶の横で、「彼」は足を止めた。しかし中嶋の視線を受けて、すぐに歩きだす。
「あの金魚は、売れ残ったらどうなるんだろうか」
思わず、「彼」の口から独り言が漏れ出ていた。その独り言に中嶋がため息をつく。
「もっとデカい魚の餌にでもなるんじゃねぇか? どのみち、こんなところで子どもに遊ばれているような金魚だ。上等なものじゃないだろう。行き着く先なんて、ろくなもんじゃない」
そんな中嶋の言葉は、最後は吐き捨てるような具合だった。足早に立ち去ろうとする彼の後ろ姿について、「彼」も縁日の列をあとにした。
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