第十三節 月が見ている①
満月の夜。民草は眠りにつけど、町は微睡むようにまだ明かりが消えきらない時間。
つい数刻前までの豪雨の名残が、道には水たまりとなって点々と続いている。その極小の湖面には、ひとつひとつに宙が映る。幾千の星が瞬き、小さな満月がいくつも道端に輝いていた。
ふいに、その一つがばしゃりと跳ねる。水面は一時揺れ、しかしすぐに何事もなかったかのようにまた月が輝く。
水たまりに足を踏み入れたのは、「彼」だった。暗い夜道を、後ろを振り返ることもなく走っていく。
正確にいえば、今の「彼」には振り返っている余裕などないことは、その荒い息が物語っていた。「彼」が走り去ってからしばらくして、強面の男たちが同じように水たまりを踏んでいく。彼らは香津屋一家の手の者で、つまり、「彼」は彼らに追われていた。
◆ ◆ ◆
「殺せないのか」
雷雲轟く倉庫街で、血のついたドスを片手に、中嶋は「鬼童子」に問いかけた。いつもの銀鼠の長衣は、雨に濡れて黒く見える。ときどき落ちる雷の光が、その影をいっそう深い黒で切り取って、地面に映し出した。
「鬼童子」は何も答えない。答えられない。固まった体が目の前の男から危険を感じ取っている。だが心がそれに追いついていかない。
「そうか」
中嶋は、静かに呟いた。それが、合図だった。
◆ ◆ ◆
嵐の雲が、いまだ分厚く空を覆っている。雷鳴は止んだが、雨はいまだ止むことを知らない。そんな中、「彼」は波止場の廃材置き場の影に座って身を隠していた。口に手を当てて荒い息の音を消して、体力の回復をはかる。
「彼」は、中嶋に追われていた。理由など明白だ。「鬼童子」があの女を殺せなかったからだ。使えない道具などあっても意味がない。なら鉄くずにでもしてしまったほうがいい。アレがそういうことを考える男だということは、きっと「鬼童子」が誰よりもよく知っている。
ならこちらも中嶋に牙を向けねばならない。なんとか拾い上げた銃は、「彼」の懐に入っている。
だというのに、胸元の黒鉄に触れようとした手は、震えていた。
雨でずぶ濡れになって、体温が奪われたからではない。さきほどの光景が、頭から離れないのだ。
身も知らぬ、顔すら一瞬のことであまりよく覚えていない男。それが銃弾に倒れる瞬間。引き金の感触。それらがぐるぐると頭の中で回っている。
中嶋から逃げるためには、もっとほかに考えることがあるはずだ。それがわかっていながら、「彼」はあの光景を思い出すことを止められない。幼いころから見上げ続けた月のように、瞼の裏に、脳の神経に、焼き付いて離れない。まるでそれだけを繰り返す機械のようだ。「彼」は正直なことをいえば、息をすることすらおっくうで苦しかった。
それでも生存のためにと、体は逃走を選んだ。それしか選べなかった。心はさきほどの瞬間から止まっているのに、体は必死に生きようとあがいていて、バラバラになりそうだ。
今だって「彼」には、あのときあの男がどうして女を助けようとしたのかわからない。今まで生きてきた中で、そんな愚行を犯す人間は一人たりともいなかった。皆が皆、己のために他者を食い散らかす獣であった。
だからこそ、「彼」は考えることを止められない。
なぜ、あの男が他人のために己が命を投げうったのか。
どうしてそんなことができたのか。
(人と獣の、何が違うのだろうか)
「彼」は再び、己に問う。
人など獣とそう違わない。誰もが他者を食い物にして生きてきた「彼」の世界で、それは一つの真理であった。
ならあの光景はなんなのか。己の身に走った、稲妻のような衝撃はなんだったのか。なぜ己はあんなふうに、声を上げて笑ったのか。
考えても答えはでない。「彼」は震える指で、銃を握る。落とさないようにと両手で、出来るだけ力を込めて。ここにいてもいずれ中嶋に見つかるに違いない。「彼」だって死ぬのは怖い。だから逃げなければいけない。
バラバラの心と体を、なんとか奮い立たせる。立ち上がった足は、少し痺れている。雨脚が弱くなってきた。雨の音で足音を誤魔化せるうちにと、「彼」は廃材置き場をあとにした。
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