第八節 猫の子、満つ月、巌の理①

※この節からしばらく児童虐待に関わる描写が出てきます。苦手な方はお気をつけください。




 二畳半に、月光が一筋。

 己が身も見失いそうな暗闇の中で、小さな子どもは月に手を伸ばす。

 風が吹けばギイギイと音が鳴るボロ小屋の木賃宿。その安っぽい木の窓枠が、不遜にも夜空を切り取っている。その中で、月は小さく、しかして明るく輝く。

 手を伸ばす子の指で、つまめるほどに小さな満月。だがそれは今まで一度だって、子どもの――「彼」の手のひらに落ちてきたことなどなかった。

 これほどちっぽけに見えるのに、これほど手のひらに収まりそうなのに、決して届かない光。それが、「彼」にとっての月というものであった。

 彼の右隣に二人、左隣に二人、彼と同じかそれよりも幼い子どもが寝息を立てている。皆彼の兄弟などではない。血の繋がりのない、赤の他人である。

 だから「彼」はほかの子どもたちのことについて多くを知らなかったし、さほど興味もなかった。ほかの子どもたちがいくつなのかさえ、「彼」は知らない。けれど「彼」が一番背が高かったから、きっと「彼」が一番年上なんだろうと思っている。

 彼らがこの木賃宿の小さな一部屋にやってくることになった理由は、さまざまなものであった。口減らし、産んだはいいが育てられなくなった、望まない子どもであった――理由はどうあれ、皆、実の親から見捨てられた子どもたちであった。

 だからきっと、「彼」もまたいらなくなった子どもだったのだろうと「彼」は思う。


 七つになった朝のこと、「彼」の母は「彼」を連れて長屋をでた。どこに行くのかと尋ねれば、遠いところだと言われた。それから歩いて、歩いて。住んでいた町をでて。それでも母は止まらずに歩いて。

 やがてついたのは「彼」の見知らぬ村の、小さな農家だった。

山の麓にぽつぽつと家が集まった小さな村。その中の一軒に入ると、母はその家の家主と何やら話をして、いくらか金を渡した。

あとから思えばそれは、「彼」の家では育てられなくなった「彼」をその農家に押しつけるための養育料のようなものだったのだろう。金を渡すと母はその家を去っていった。「彼」を置き去りにして、背を向けて。

しかし、「彼」がその農家に長く身を寄せることはなかった。母の元に帰ることになったのではない。母から金を受け取っておきながら、農家の家主は一週間ほどで「彼」をこの木賃宿の部屋を根城にしている男に売り飛ばしたのだ。


 「彼」がここに来たときは、今いるほかの子どもたちとは別人の、四人の子どもがいた。「彼」より前にいた子どもたちは皆、一人、また一人といなくなって、彼らがいなくなると別の子どもがやってくるのだった。

 いなくなった子どもたちがどこにいってしまったのか、「彼」にはわからない。けれど「彼」が一番長くここにいるから、きっと次にいなくなるのは自分なのだろうと、「彼」はどこか他人事のように考えていた。

 そんなことよりも、「彼」は腹が減っているのだ。ここにきて二か月。ほかの子どもたちもそうだが、「彼」は数日に一度、ぎりぎり死なない程度の残飯ぐらいしか与えられていない。起きている間の半分ぐらいは頭の中に靄がかかっているような気分で、そこにノミのかゆさが加わると最悪だった。

 ひもじい、かゆい、ひもじい、かゆい。一日のうちの大半はそんな感情で埋めつくされて、ざりざりと、母の下にいたころの「彼」は削られて。頭にかかった靄に、親兄弟の思い出はだんだんと覆い隠されて。この木賃宿を根城にしている男は彼らの名前すら呼ばずに、自分だけ酒と飯を食らってぐうたらとしているので、「彼」はついに自分の名前すらおぼろげにしか思い出せなくなっていた。


 夜の闇に耳を澄ますと、赤ん坊の声がする。人間の赤ん坊ではない。似ているけれど、違う声だ。

 それは子猫の鳴き声であった。きっと、板の外れたドブに落ちてしまったのだろうと、そう「彼」は考えていた。ずいぶんと長い間、母猫を探して鳴いている。

(母猫は子猫を助けにくるだろうか。いや、きっと来ないだろう)

 こんなに長い間子猫が鳴いているのに、母猫の声なんて一つもしやしない。おそらく、母猫はあの子猫を見捨てたのだ。猫は子どもが多いから、一匹ぐらいいなくなっても困らないのだろう。そう思いながら、「彼」はかきすぎてひりひりする頭をまたかいた。


 次の朝、「彼」は男に連れられて木賃宿をでた。「彼」がここに来てからというもの、外にでるのは初めてのことだった。

 宿の小さな窓で切り取られていた町は、その窓枠の外も、宿の中と変わらず小汚かった。皆木賃宿の男と同じように貧しい身なりで、昼間から酒を飲む者もいれば、屋根の下でボロ切れに身をくるんで横たわっている者もいる。皆誰も、まともな大人には見えなかった。

 そんな町の様子を突っ立って見ていたら、「彼」の腕が引っ張られた。宿をでた「彼」の手首には縄がつけられている。その先を握っている男が、縄を引っ張ったのだ。

 男は「彼」の都合なんてお構いなしで、通りを歩いていく。縄は目が粗くささくれ立っていて、引っ張られて手首に擦れると痛い。しぶしぶ、「彼」は蹴躓きそうになりながらも男のあとをついていった。

 宿をでてすぐのドブには、一か所蓋のないところがあった。通り過ぎざま、「彼」はその中をちらりとのぞいた。

 案の定、ドブの中には子猫の亡骸が汚泥にまみれて横たわっていた。「彼」の髪と同じ、黒い毛並みの子猫だ。

 「彼」は、微塵も同情など湧かなかった。しかし、体の芯の部分がすっと一瞬冷たくなった気がして、足を止めたのだった。

 向かいの屋根の上から甲高い声がして、「彼」は顔を上げた。するとそこには二羽のカラスが止まっており、物欲しそうにドブを眺めていた。

 また男に縄を引っ張られて、「彼」は歩きだす。あとから振り返ってみれば、カラスたちは屋根からすぅっと舞い降りて、ドブの中に姿を消していったのだった。


 男に連れてこられたのは、木賃宿に負けず劣らずのボロ長屋だった。場所は貧民窟でも端の端。貧民窟に一本通った大通りを木の幹、そこから奥へと入っていく通りを枝とたとえるなら、末端の小枝の先といったところ。近くには土手があって、その向こうには川が流れている。

 男は長屋の一番手前の部屋で足を止めると、痛んだ木戸を叩いた。ほどなくして、木戸の向こうから現れたのは鼻の下に大きなほくろがある、厳つい顔つきの男だった。どうやらこの長屋の大家らしいそのほくろの男は、木賃宿の男と何やら少し話をしたあと、何かを渡しているようだった。それで木賃宿の男の用は終わったようで、ほくろの男に軽く会釈をしてから長屋に背を向けた。

 ぼうっと突っ立っていてまた縄を引っ張られるのはごめんだ。そう思った「彼」もまた、木賃宿の男の後ろについていこうとした。

 しかし、「彼」が足を前に踏み出すとした瞬間、「彼」の体は後ろに引き戻された。地面に尻もちをついた「彼」が不思議に思って顔を上げれば、その手の縄の先は、ほくろの男の手に握られていた。

 「彼」はどうやら、この家に売られたようだった。

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