第七節 鬼狩り、血の海、中天の月②

 手早く荷物をまとめたガランは、隠岳山への道を急いでいた。雪の上についた何人もの足跡を辿って、鬼狩りの一行を追う。その足跡は一歩一歩、あの家へと近づいていく。何度も白い息をはいて、ガランは家への道を走る。

 白い息を見るたびに、ガランはアケを思い出す。

 初めの夜に彼を拒絶したアケ。山から持ち帰ったものを、彼の横でじっと見つめるアケ。ウサギの捌き方を教えてくれと頼んだときの、呆れた顔のアケ。ザクロの実が入った巾着を火にくべたときの、手の震えを隠しきれなかったアケ。手負いの獣のように部屋の隅でうずくまるアケ。駆け落ちの二人を襲ったときの、人喰いの鬼と呼ぶにふさわしい様子のアケ。父親を喰った話をしたときの、ただの人の娘のように指を震わせ、嗚咽を押し殺すアケ。

 ガランは、自分がどうして今山の中を走っているのかわかっていなかった。己を突き動かす衝動。耳障りなほどに大きく鳴っている、己の鼓動。

 その理由、動機の一つも理解できていない。だというのにこれほど必死に走っている己が、不可思議で仕方がない。

 ただ、ガランは知っている。アケの息は白いのだ。今吐き出されている彼の息と同じように。「山を下りたほうがいい」と言われた夜に見た、月と同じように。


 黒い木々の肌を見送って、騒めくクマザサの葉を踏みつけて、ガランはあの家に辿り着いた。家の周りには大勢の足跡が残っている。足を忍ばせ、息を殺して、ガランは家へと近づく。

 開け放たれた戸の前に立ち、しかし、彼は家へと入らなかった。踵を返して、その場を立ち去る。

 家の中、火の灯らない囲炉裏のそばには、ザクロのような赤い血が広がっていたのであった。


 雪深い山道を、青年はただ一人走る。足音を極力殺して、しかし急ぎ足で。

 青年――ガランの行く手には、赤い斑点が雪道の上に点々と続いている。血だ。まだ息のある誰かから流れたばかりの鮮やかな血だ。それとは別に、幾人かの足跡も残っている。

 ガランの頬に、雫が垂れる。それが溶けた雪なのか、走っている彼の汗なのかは判別がつかない。流れた雫は顎を伝い落ちて、彼の着物に染み込んだ。

 ガランが辿っている血は、山の上へと向かっていた。真っすぐに上へ行くような道筋を描かず、ときおり迷うようにうろうろと蛇行している。

 そのまま血を追っていくと、ガランは開けた場所に辿り着いた。血痕はそのぽっかりと開いた空間の真ん中で途絶えている。

 ガランは、いつだったかアケが話していたことを思い出した。ウサギは捕食者から逃れるとき、足跡を偽装するのだと。とめ足といって、逃げている途中で自分の足跡を踏むように戻り、そこから直角に跳ねて藪などに飛び込み、足跡を辿られないようにするのだ。

 ここにもちょうどよく、少し戻ったところに藪があった。アケはウサギと同じように、自分の血の跡を利用して身を隠したのかもしれない。

 アケを追う若者もそれに気がついたのだろう。血を辿る足跡は、ここから少し戻っていっている。

 ガランはそれを追って、また走りだした。今度はさきほどよりも気をつけて足音を殺す。


 少し行ったところで、ガランは白い視界の中に、黒く動く者を見つけた。人だ。黒い頭に、手には何か長い物を持っている。

(銃だ)

 遠くから見て、ガランの指先ほどの長さであっても、彼にはそれが銃だとわかった。黒い人影は、何かを探してうろうろと周囲を見回している。間違いなく、鬼を狩りにでた集落の若者であった。ガランの眉間に、深くしわが寄る。

 ガランは身を屈めると、ゆっくりとその人影に忍び寄っていく。他の仲間とははぐれてしまったのか、相手は一人だった。近くに寄るほど、相手がガランよりもずっと体格のいい男性であることがわかる。若者とガランとの間に生えている木の数は、一本、また一本と少なくなっていった。

 若者との距離が杉の木あと数本になったとき、ガランは木の根元に石が転がっているのを見つけた。ガランの手のひらに収まるほどの小さな石が二つ。

 彼は片方の石を手に取ると、若者から見て彼とは反対方向の、出来るだけ遠くに放り投げた。石は高く弧を描いて、雪に埋もれる藪の中へと飛び込んだ。

 突然鳴ったガサガサという音に、若者は何者かの気配を感じて藪のほうへと足を進める。狙った首がそこにあるかもしれないと、若者の注意がすべて藪のほうへ向かうのが、ガランには手に取るようにわかった。

 若者が、藪をのぞき込む。ガランが駆け出す。昨日の夜に降った雪が、彼の足音を消してくれる。若者がガランの気配に気がついて、振り向こうとしたとき。ガランが石を持った手を大きく振りかぶる。

 瞬間、鈍い音。鉄臭い匂い。赤。


 規則的な、荒い息。その主たるガランの手には、血のついた石が握られている。

 そして、目の前にうずくまる体格のいい若者。ガランは素早く背後をとるとその背に馬乗りになり、自分の腕を相手の首に回して締め上げた。

 がくん、と、腕に伝わる重みが跳ね上がる。ガランが若者の首から腕を離すと、相手は雪の上に顔を埋めて倒れた。若者の額から、雪に血が滲んでいく。じわり、じわりと。その様子を、ガランは立ち尽くして見ている。荒い息を呑み込んで、冷たい空気とともに、唾液を喉の奥へと押し込んだ。

(なんだ、これは)

 円を描いて広がっていく血の海。その光景に、ガランは猛烈な既視感を覚えていた。

 寺で目を覚ましてからここに至るまで見た覚えのない光景が、目の前の惨状に重なっていく。まるで絵に薄い布をかけるように、目の前に見覚えのない血の海が広がっていく。白い雪の上に、点々と、ぽつぽつと。血の跡が浮かび上がってくる。

 見た覚えなど、ないはずだ。土の上に広がる血など。

(ああ、けれど知っている)

 ガランの手には、血がついている。彼はその手で自分の頭を抱え込んだ。頭が、割れるように痛かった。

 目の前に浮かび上がる血の跡とともに、彼の記憶が浮かび上がってくる。白紙だった彼の過去を、赤く描き出す。

 ぽつぽつと、点々と、忘れていた彼自身の姿があらわになる。最初は降り始めの雨模様のようであったそれは、やがて立体感を持って彼の目の前に迫ってきた。ずっと彼が胸の奥に感じていた虚無感を引っ張り出して、まざまざと見せつける。これがお前だ、これが自分だと。

 ガランは、気がつけば天に向けて手を伸ばしていた。そこにあるのは今にも雪が降りだしそうな灰色の雲。

 しかし、ガランの目は雲など見ていなかった。見ているのは、思い出の中にある、決して届かない中天の月。


 幼いころに何度も見上げた、触れられない光であった。

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