第八節 猫の子、満つ月、巌の理②
ボロ長屋での生活は、木賃宿での生活と比べて決していいとは言えないものだった。
飯は腐りかけの漬物だとか水のように薄い粥だとかで、木賃宿のときよりは食べられる頻度が増えたのでそこはまだマシだった。
朝起きたら長屋の近くの井戸に水を汲みにいき、そのついでにボロ布を冷えた井戸水につけて絞り、それで軽く体と髪を拭った。夏の暑い時期なら数日に一度でいいだろうが、冬が近づいて寒くなってくると、全身に氷が張ったようになって痛いぐらいなので週に一度程度になる。
夜は一畳足らずほどの土間に擦り切れたムシロを敷いて、使い古した布をすっかぶって寝た。これも気温が下がってくると地面からの冷えがつらく、横になると寝ていられないので、三角に立てた膝の上に顔を埋める形で座って眠ることにした。
何より「彼」をうんざりさせたのは、大家の男が暴力を振るうことにあまり躊躇がない人間であることだった。
朝起きてから夜寝るまでの間、「彼」の時間の大半は内職と家の雑事に奪われていた。それが言いつけられた時間までにできなかったり、失敗したり、ツメが甘かったりすると、大家の男は「彼」を殴った。特に何もしていなくても、男の機嫌が悪ければ殴られた。
殴られるのはまだいいほうで、腹を蹴り上げられたときなんかは最悪だった。衝撃で上ってきた胃液を土間に吐き出してしまって、それがまた男にとっては腹立たしかったらしい。吐き出した胃液を頬にこすりつけながらうずくまっているところを男にもう一度蹴り飛ばされて、気を失ってしまった。
そんなことなので、「彼」には青あざが絶えなかった。服で隠れないところにはちらほらと、隠れるところには数え切れないほどに。浮かんでは消え、浮かんでは消えて。
大家の男には妻がいたが、当然「彼」を助けてくれるわけなどなく。それどころか「彼」がヘマをすれば「グズ」だの「のろま」だの罵倒を浴びせられた。それだけならまだよかったが、貰えるはずだった飯を抜かれることもあり、それが「彼」にとっては一番つらかった。
長屋の店子たちはといえば、日中顔をあわせることがあっても、「彼」と目をあわせる素振りすら見せない者がほとんどだった。大家との会話から察するに、このボロ長屋に住む者たちは、ワケありものが多いようだった。そんな彼らが「彼」を助けようなど、あるはずもなかった。
午前に言いつけられたことを終え、茶碗に粥をよそって、さじを突き入れて運ぶ。運ぶ先は、大家夫婦が暮らす部屋の隣の部屋だ。
「彼」が部屋の戸の前に立つと、中からはいつも通りかすかに歌が聞こえてきた。どことも知れぬ場所のわらべ歌だ。
ほかの店子やこのあたりに住む人々が噂するところによると、この部屋には「でてはならぬものがでる」という。
借金で首が回らなくなって首吊りをした車夫が化けてでるだの、病に伏せって世を呪いながら死んでいった娼婦が床を這いずり回っているだの。
嘘か真か、夢か現かわからぬような話だが、そう囁かれるのも無理はないと「彼」は思う。
この数年、この部屋に住んだ人間は皆この部屋で死んでいるのだ。死んだ店子は数えて七人。縁起が悪いにもほどがあるし、こう立て続けに人死にがでてはそのような噂が流れても仕方がない。
だがそんな噂などさして気にすることもなく、「彼」は戸に手をかける。
滑りの悪い戸を開けて、目につくのは天井からぶら下がる一本の縄だ。その先は、三畳ほどの部屋に横たわる娘の首元に繋がっている。「彼」が開けた戸と、その上にもうけられた小さな明かり取りの格子から差し込む光で、部屋の中は薄ら暗く照らされている。「彼」が部屋の中に足を踏み入れると、歌は止んだ。
「しんちゃん?」
大家の元に売られた貰い子は、「彼」以前にもう一人いた。小さな燭台一つと、据えた匂いのするボロ布と、天井の梁に結びつけられた縄。それだけしかない部屋で、力なく横たわっている娘。「みつ」という名を持つ彼女こそが、その貰い子だった。
七人も店子が死んでいて、あやしい噂が立っている部屋。そんな部屋は、やはりこの掃きだめのような貧民窟であっても借りる者はいないのだろう。どれだけ家賃を下げても店子が入らないことを悩んだ大家は、一年ほど前からここでみつに「仕事」をさせることにしたのだそうだ。
みつの「仕事」の内容を、「彼」は知らない。しかし彼女の身の回りの世話をすることは、「彼」の仕事の一つであった。
「しんちゃん、今日も来てくれたの?」
「彼」がみつのそばに寄ると、彼女はそれまで虚空を見つめていた目を輝かせて、体を起こした。
「うれしい。お姉ちゃん、しんちゃんが毎日来てくれてすごくうれしい」
青白い頬を緩ませて、彼女は「彼」に今日も微笑む。しかし、それが「彼」本人に向けられているものではないことは、「彼」自身よくわかっていた。
「彼」よりも十以上は年上で、「彼」より長くこの家で暮らしてきたみつの心は、「彼」が出会ったときにはすでに壊れていた。
「彼」と似たような経緯でここにやってきたみつには、故郷に「彼」と同じぐらいの歳の弟がいるらしい。彼女がここで頑張っていれば、溺愛していた弟が苦しい思いをしなくて済む。それが彼女の心の支えであったのだろう。
それは彼女の心が壊れてからも変わらなかったようで、ある朝「彼」がこの部屋の戸を開けたとき、彼女は号泣した。弟の「しんちゃん」が、姉の自分を心配して、ここまで尋ねてきてくれたのだと。実際は、弟でもなんでもない、赤の他人の「彼」であったのだけれども。
粥と漬物を乗せた盆を彼女のそばに置き、「彼」は無言で茶碗をみつに差し出す。みつはそれを受け取って、今日も細い声で話しだす。
彼女が話すのは、たいていが故郷での日々のことだったり、昔弟に語って聞かせたおとぎ話だったりだ。そうして懐かしい思い出を掘り起こして、現実の日々を記憶の底に埋めているのだろう。
「彼」はいつも、それを無言で聞いていた。彼女の話に興味があったわけでも、彼女を思いやってのことでもない。彼女の話はときどき別の話に飛んでしまうことがあったし、「彼」にとって何か共感できることがあったわけではない。
この家では、大家の男の前で不必要なことを言うと殴られる。だから、ただ「彼」は極力この家では言葉を発しないようにしていただけのことだった。
話をしながら、粥を口に運ぶみつの腹を、「彼」は盗み見る。
(また、大きくなってる)
彼女の腹は、不自然に膨らんでいた。太っているのではない。むしろ、彼女は瘦せぎすだった。茶碗を持つ腕なんて骨と皮しかないような細さだ。食事も無駄な脂肪をつけるほど貰っているわけではないというのは、「彼」が一番よく知っている。
しかしどういうわけか、彼女の腹は日に日に大きくなっていた。「彼」がこの長屋にやってきて三か月。最初に引き合わされたときにはすでに膨れていたが、あれからもう一回りほどは大きくなっている。
みつ曰く、これはそういう病気だということだった。日に日に腹が大きくなっていく病。だからここで養生をしながら「仕事」をしているのだと、彼女はそう語っていた。
「もしかして心配してくれてる? ありがとう、しんちゃん」
みつは微笑んで、「彼」の頭をなでようと手を伸ばした。しかし「彼」はすっと手で頭を隠して、彼女に自分の頭を触らせようとしない。そんな「しんちゃん」に、みつは苦笑いをする。いつもの光景であった。
もちろん「彼」はみつのことなど心配していない。日々の終わりに、「彼」は大家夫婦に一日のことを報告するようにしつけられていた。その報告の中に、みつのことも含まれているだけのことだ。
そもそも、「彼」はみつのことが少し苦手だった。弟を思いやる目をする彼女の話は、「彼」に家族のことを思い出させてしまいそうで嫌だった。今や、「彼」がはっきりと思い出せる家族の姿といえば、「彼」を置いて去っていく母の姿だけ。すり減った心の中に残ったおぼろげな家族の姿など思い出しても、これっぽっちも腹の足しになんてなりやしない。それなら、思い出なんて空っぽなほうがマシだった。
「寒くなってきたね。もうすぐ冬」
そう言うとみつは、薄い着物をまとった己が体を抱きしめた。
「あのね、しんちゃん。お姉ちゃん、明日になったら家に帰れるようになったんだ」
そう言うみつの視線は、「彼」を見ていない。「彼」の向こうにいる「しんちゃん」を見ているわけでもない。
まだ見ぬ明日の方向。決して訪れるはずのない未来の方向。虚ろな妄想を見ているのだ。
「だから、一緒に帰ろ。手ぇつないで、家に帰ろ」
みつの小枝のような指が、「彼」の手を掴んだ。その見た目に反した強い力で、「彼」の右手は動けなくなる。
「家に帰って、正月になったら一緒におもち焼こう。しんちゃん、おもち好きでしょ。お姉ちゃんの分もあげる」
彼女の話は、いつだって「彼」が忘れ去ってきたものの話だ。
温かな家も親兄弟もおぼろげにしか思い出せないし、思い出そうと思うこともない。失ったものは二度と戻ってこないのだ。「彼」にとってはそれよりも、大家に殴られないようにすることや、毎日どうやったら飯にありつけるかのほうが大事だった。
だが彼女にとっては、きっと逆だったのだろう。現実はひもじくてみじめで、思い出だけが彼女をなんとか生かしている。だからそれにしがみついて、ありもしない幻想を「彼」に重ねて、「彼」を弟の名で呼ぶのだ。
そんなことを考えると、「彼」は喉の奥が閉まるようで、なんとなく不快だった。飲み込んだ魚の小骨が喉の奥から心の臓あたりまで落っこちてしまって、動くとちくちくと細かく刺すような。
「だから、明日になったら……明日になったら、また来て」
明日になったら。その言葉を、「彼」は毎日みつの口から聞いてきた。
明日になったら。その明日が来たことなど、一度だってありはしない。きっと次の日も、「彼」は同じ言葉を聞く。
「明日に……なったら……」
強く握った手とは裏腹に消え入りそうな声を、「彼」は今日も黙って聞いている。握られた手を振り払わずに、静かに、ただ静かに、彼女の虚ろで愚かな夢に耳を傾ける。
みつが粥を食べ終わると、「彼」は部屋から出ていくのが決まりだった。あまり長い間この場所にいるのも、大家の男に怒鳴られる原因となるのだ。
部屋の戸を閉める際、「彼」はいつもほんの一瞬だけ、みつのほうを振り返る。彼女の首の長い縄。夜になって大家とその妻が眠るころになると「彼」も腕に縄をつけられる。「彼」の記憶にある限り、彼女の縄が外されたことなどない。
大家の男曰く、みつは一度ここを逃げ出そうとしたことがあったそうだった。逃げ出す前に彼ら夫婦に見つかり、それからはずっと首に縄をつけて逃げ出さないようにしているのだとか。
その話を聞かされているとき、「彼」は暗に、「逃げたらお前もこうなるぞ」と言われている気がしてならなかった。「彼」がまだあまり外に働きに出されないのも、脱走を警戒してのことなのだろう。「彼」の前でおちょこを傾ける男の手は大きく、ごつごつとしていて硬い。背は「彼」よりもずっと高いし、体格もいい。
「彼」は黙って頷いて、夜だけ縄をつけられることを選んだ。一昨日も、昨日も、今日も、明日も、明後日も、「彼」はこの家を逃げ出そうなどと考えない。
そしてこの夜も、「彼」は手首に縄をつけられて眠りについた。
ムシロを敷いただけの土間は硬くて冷たく、冬に入りはじめたこの季節には厳しいものがあった。それでもボロ切れのような布にくるまって、「彼」はこの夜をしのごうとしていた。
意識が脈絡のないことをあれこれと浮かべては消していく寝入り端、猫の泣き声が聞こえた。
ああ、またかと、眠りに落ちそうだった「彼」の意識はその声に焦点をあわせてしまい、眠気の狭間で踏みとどまる。
声は壁を挟んだ向こう側、みつがいる部屋から聞こえてきた。縄張り争いで唸るときによく似た、しかしそれよりもずっと悲痛で、切羽詰まった猫のような声。
この声は、「彼」がここに来てからおよそ毎晩しているものだった。姿を見たことはない。数日間隔が空くこともあるが、昼間に聞こえることもある。
だが不思議なことに、「彼」はみつの部屋で猫を見たことがなかった。隠して飼うようなことができる広さではない。声だけが聞こえるのだ。
苦しみもがくような声が煩わしくて、「彼」はこの声がするときはいつも布を頭まですっ被って眠っていた。埃とカビの臭いで息がしづらいが、そうしないと夢の中にまで声が響いてくるのだ。
大家とその妻は、慣れきっているのか素知らぬ顔で眠っている。毎度のことながら、こんな声を聞きながらよく眠れるものだと悪態をつきたくなるぐらいだった。
夜のしじまに、高く響く啼き声。今夜はいっそう声は悲惨で、まるで人間の女の悲鳴のようだ。ときおり何かをひっくり返したかのような騒々しい音も聞こえる。
布の中で、「彼」は独り、己で己を抱きしめた。
ぞわりと鳥肌が立つのは決して寒さのせいだけではない。声が聞こえるたびに肌の表面をチクチクとした小さな電流のようなものが走って、体内で痺れが胃を刺した。
一刻も早くこの声が収まることと、己の意識が再び眠りに沈んでいくことのみを願って、「彼」はその夜、瞼を力いっぱいに閉じたのだった。
◇ ◇ ◇
朝霧が頬を濡らす夜明け。「彼」はみつがいる部屋の前で立ち尽くしていた。
鉄臭い匂いのする部屋の中。土気色の裸足。紫の痣。股のあたりから広がる血の赤。場違いに光る一枚の小銭。
朝日に照らされぬ瞼が開かれることはない。青白い頬が微笑むこともない。「彼」を「しんちゃん」と呼ぶ声もない。
そこにあるのはみつではなく、ただの死体であった。
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