第七節 鬼狩り、血の海、中天の月①
隠岳山の麓の集落に、カーン、カーンと、薪を割る音が響いている。
場所はこの数十軒が集まっただけの小さな集落の中の一軒。薪割り台の前で、齢二十幾ばくか、もしくは二十足らずかの青年が、繰り返し斧を振り下ろしている。
痩せ型だがそれなりに相貌の整った青年は、名をガランという。本当の名ではないが、海辺に打ち上げられて寺に拾われるまでの記憶を持たない彼は、寺でつけられたその名以外に、名乗る名を持たない。
ガランは割れた薪を退けると、また一つ薪割り台の上に薪を置いた。少し腰を落として膝を曲げ、薪割り台に対して水平に斧を振り下ろす。斧の刃は真っすぐに薪を割るはずであったが、存外堅かったらしく、途中で刃が止まってしまった。
ガランは斧が刺さったまま薪をひっくり返すと、斧を薪割り台へと何度か叩きつける。すると、薪の自重で割れ目が広がり、薪は綺麗に二つに割れた。
そうして薪割りを繰り返していると、家の中から中年の女性の声が響いた。どうやら朝食の時間を、ガランに教えてくれたようだった。
アケの元から去り山を下って数日。ガランは、山に登る前世話になっていたこの家に、再び身を寄せていた。世話になる代わりに、こうして働いているというわけである。
さきほどガランに声をかけた中年の女性は先日亭主を亡くしたそうで、男手があると助かると言って、不愛想なよそ者のガランでも歓迎してくれた。
ガランが作業を中断して居間に入ると、麦飯とたくあん、味噌汁が用意されていた。
これから、どうするべきだろうか。干した大根が入った味噌汁をすすりながら、ガランは考える。もともとあてのない旅である。己の死に場所を探す旅だ。ここが終着だと思っていた。
しかし、彼女は彼を食べてはくれなかった。これからも食べる気になんてならないと言われてしまった。それにきっと、彼女では自分を殺せないだろうと、ガランもわかっている。
だから、ガランは次の死に場所を探さなければならない。いまだこの胸の空虚は満たされず、願いは変わらない。せめて死ぬのなら、誰かの役に立って死にたい。本当の願いではなく手段にすぎないのではないかとアケに言われたそれは、その本当の形というものがわからないまま、ガランの中でうずくまっている。
けれど、ガランの頭からアケの顔が離れない。せめて最期まで人として生きていたいと言った彼女の、届かない光に手を伸ばすような必死な顔が、忘れられない。
(アケがいい)
あのときの彼女の顔を思い出すたびに、想いは強くなっていく。
(アケが、いいんだ)
この命を預けるなら、あの人がいい。ここ数日斧を振りながらでた考えなど、結局それだけだった。
朝食を終え、玄関先の雪かきをしようとガランは外へとでる。すると、家の前を何人かの若者が連れ立って通り過ぎていった。その手には猟銃だの鎌だのがそれぞれ握られていて、尋常な様子ではない。
さすがのガランも何があったのかと気になって、畑に出かけようとするこの家の娘を捕まえて、ことの次第を尋ねてみることにした。すると、例の若者たちの行軍には、数日前にこの集落に駆け込んできた、若い男女が関わっているということだった。
数日前の朝早く、隠岳山からこの集落の長の家に、転がるようにして駆け込んできた若い男女がいた。
駆け落ちをしている最中だというその二人曰く、彼らは隠岳山の人喰い鬼から逃げてきたのだという。
鬼は白い髪に赤い瞳の娘の姿をしていて、雪山の中に建つ家を頼ってきた二人を招き入れたかと思えば、夜中に鎌を持って男の寝込みを襲おうとしたのだとか。寸でのところで男は目を覚まし、連れの女ともども命からがらその家を抜け出し、この集落まで逃げてきたそうな。
普通に聞けば夢物語。悪夢でも見たのだろうと一笑されるような内容であるが、舞台は近ごろ人喰いの鬼がでると噂される隠岳山である。
加えて長の元に辿り着いた男女は顔面蒼白で酷くおびえ、こんなところに少しの間だっていたくないと、その日のうちにこの集落を旅立ってしまった。その様子といい、近ごろ噂される人喰い鬼と、彼らが話した鬼の娘の姿が似通っていることといい、もしや本当にあの隠岳山には鬼が住み着いたのではないか。そんな噂で、この数日集落の井戸端会議では持ち切りであった。
数十軒が寄り添っただけの、小さな集落だ。一日もあれば、話は集落全体に広まる。実際にその男女の様子を見ていない若者たちは半信半疑、退屈しのぎの怪談話程度に思っていたが、実際におびえきった様子の男女の様子を見た長と、心配性の老人たちは違った。
もし本当に、山の中に人喰い鬼が住んでいるのだとしたら。それが山を下りてこないとも限らない。そして、それがこの集落を襲ったら。そう考えると放っておくわけにもいかず、彼ら村の中でも体格のいい若者を五人集め、鬼を探させて見つけ次第討つことにしたのだ。
本当に馬鹿馬鹿しい話だと、娘はため息をついた。それと同時に、午後からこちらの作業を手伝ってくれないかと言おうとして、ガランのほうを振り返った。
しかし、そこに彼の姿はすでになかったのだった。
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