第六節 人殺し

 雪雲に隠れて、真昼の太陽は鈍く輝く。しかしそれも一瞬の出来事で、すぐに雲の厚さに呑み込まれ、姿を消してしまう。

 灰色の空から、ひらり。雪が降る。最初の一片を追って、またひらり、と。やがて小さな雪たちが、山のすべてに降り注ぐ。

 雪の白は、無垢な色ではない。正義を表す色でもない。

 雪の白は、略奪の色である。音を奪い、温度を奪い、色彩を奪い、生命を奪う。

 天から降り注ぐその姿の内に、決してそのような思惑は窺わせない。触れれば溶ける儚さを愛する者もいるだろう。だがその儚さに油断をすれば、人など容易に呑み込まれてしまうのだ。雪の白とは、そういった色である。


 アケの髪は、そんな雪と同じ色であった。根元から毛先まで、変わらない白。少し前まではよく手入れされて艶やかだった長い髪は、今は古びた鋏で切り裂かれて、肩の上で不揃いに段を作っている。

「せめて、心だけでも最期まで人として生きていたかった」

 空になった湯呑を見つめながら、アケは呟く。


 アケは、父を「喰って」「殺して」しまった己の体を、もはや人のものであるとは思えなかった。

 人を見れば甘い芳香に誘われ、それを傷つけ、あの赤い球体を喰らえと、渇いた体が訴えてくる。まさに、人喰いの鬼そのものであった。

 しかし、心だけは。この痛みを抱える心だけは、まだ人のものであると思いたかった。心まで鬼になる前に、人として終わることが、今の彼女に残された唯一の願いである。

「これ以上、人であることから離れたくない。人殺しの鬼になんてなりたくない。だから、何度も死のうと思った」

 この家についてからも、割れた皿で、錆びた鎌で、刃のこぼれた包丁で、古びた縄で。アケは幾度も、その白い首を傷つけようとした。

「でも、今日まで一度だって、私は私を殺せなかった」

 何度彼女が死のうとしても、彼女の手は震えて、いつも動かなくなってしまう。

 きっとあと一度人を喰らえば、アケは心の底から人喰いの鬼に成る。

 自分が誰かを傷つけ、鬼になってしまうのは恐ろしい。

 しかし、死ぬのはもっと恐ろしい。

 だが、生きていればこの渇きは満たされることはなく、人を見ればきっと傷つけてしまう。

「ああ、本当にどうしようもない」

 なんて傲慢で、強欲なことかと、アケは己自身に思う。手元の湯呑を強く握った。湯を飲み干したそれは、中身こそ空であるがまだほんの少し温かい。その温かさもきっと、すぐに消えていってしまう。アケの人である部分と同じように。

 

 しばし、部屋の中に静寂が流れる。聞こえるのは、二人を隔てる囲炉裏の炎が爆ぜる音のみ。アケもガランも、ただ燃える火を見つめていた。

 静寂を破ったのは、外から響いてきた、屋根から雪が落ちる音だった。鈍く重い音が、窓の外から連なって聞こえる。

「父親を殺したとき、血はでたのか」

 ふいに、ガランが口を開いた。思ってもみなかった問いかけに、アケはわずかに口を開く。

「血は、でたのか」

 ガランは一音一音確かめるように、言葉を繰り返す。アケはそれに、ゆっくりと首を横に振った。

「なら、お前は父親の首を絞めたのか。頭を固いもので殴ったのか。鉛玉を撃ちこんだのか。食事に毒を盛ったのか」

 今度は矢継ぎ早に、ガランは問いを投げかける。アケはそのすべてにかぶりを振った。

「息の根を、止めたのか。心臓を、止めたのか」

 ガランの瞳は、その視線でアケの目を射抜くかのように真っすぐに、彼女を見つめていた。

 その瞳は黒く深く、底が見えない。まるであの夜に父の胸に開いた穴のようだ。そう思うと、アケの手のひらにはじわりと汗が滲んだ。

 ほう、と、彼が一つ息をはく。その息に囲炉裏の炎の先が揺れて、金色の火の粉が舞い上がる。

「なら、お前のそれは、『殺した』とは言えない。殺人ではない。お前は、人殺しではない」

 金の火の粉はきらきらと、ひらひらと、宙をゆく。飛んで、飛んで、やがてどこかへ消えてしまう。

「だって、お前の父親は息をしていて、心臓は動いていて、血は流れていなかったのだから」

 目の前で燃える炎とは対照的に、ガランの声に温かみはない。ただただ平坦で、感情を伴わない声色。そこに侮蔑はなく、さりとて慰めもない。

 囲炉裏の中で、ぱちぱちと火が爆ぜる。大きく、小さく、強弱をつけて音が鳴る。

 ぱちんとはじける火の音に重なるように、アケの頭の中で、かちりと音がなかった気がした。ぽかんと開いていた口が真一文字に引き結ばれて、その奥で歯がぎりりと鳴る。

「そんなわけがない! あるものか!」

 ひときわ大きく弾ける火の音をかき消して、アケが叫んだ。

「あんなに元気だった父さんが! あんな、何も答えず、ただ息を吸うだけの人形みたいになって……どうしてそれを、生きているといえるのか!」

 アケは髪を振り乱して、唸りを上げる獣のように、ガランの言葉を否定する。

「お前に、お前にいったい何がわかる」

 低く震える声には、憤怒が宿っている。涙の膜が張る瞳は、ガランの姿を捉えている。怒りをあらわにするアケに、相も変わらず微動だしない、心と記憶をどこかに置いてきたような青年の姿を。

「空っぽでなんの匂いもしない、相も変わらず食いでのない、大切な人など誰もいない」

 アケは手に持っていた湯呑を握りしめる。その中身は空っぽで、何も入っていやしない。

「――まるでがらんどうで実の詰まっていないザクロのようなお前に、いったい何が語れるというんだ!」

 アケは瞳を、カッと見開く。ガランの顔の横を、湯呑が掠める。次の瞬間には、さっきまでアケの手元にあったはずの湯呑が、ガランの後ろで騒々しい音を立てて割れていた。


 叫び終わって、アケはぜえぜえと肩で息をする。そんな彼女としばらく視線を交わしたあと、ガランは立ち上がった。

 アケに背を向けた彼は土間に下りると、元の姿など見る影もなく割れてしまった湯呑を見下ろしていた。ガランはその中でも一番大きいかけらを手に取ると、それをしばらくの間じっと見つめていた。

「なあ、アケ。やはり俺はそんなに空っぽで、食べるに値しないやつなのか」

 振り返って、ガランはぽつりと一言呟いた。いつも感情ののらない、平坦な調子で発される彼の声が、らしくもなく少し震えている。しかし、彼がそこにいったいどんな感情をのせているのか。それを推し量るほどの余裕など、アケにはもう残っていない。

「ああ、そうさ。お前は空っぽだ。その名の通りのがらんどうだ。きっと一生そのままだ。頼まれたって、食べる気一つ起きやしない!」

 吐き捨てるようにして、アケは言い放つ。その言葉に、ガランは再び彼女に背を向けた。


 そしてしばらくのあと、山中の古い家から、一人の若者が姿を現した。

 青年は真っ白い雪道に一本の線を描きながら、山を下っていく。来たときと同じように、眉の根一つ、動かさず。

 浅黒い木々の間を抜け、獣道を行き、クマザサの葉を鳴らし。淡々と道行を下る彼を、巣穴から顔をのぞかせたウサギが、耳をそばだてて見ていた。

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