第五節 穴、穴、穴③
氷の張りきらない沼のほとりで、娘が一人膝をついている。
白髪は乱れ、手足は汚れ、息は荒い。娘がはいた息に、沼の水面はささやかに波立つ。その波紋が収まったあとに写っていたのは、娘の蒼白な顔であった。
「――した」
白い髪に、赤い瞳。常なる人のそれとは違う色。それはかつて、アケが棄てられていた神社の神主が、神様の御使いの証だと言った色。
「殺した、殺した、殺した」
ぱしゃり。沼の表面を、アケの拳が叩く。何度も、何度も。凍えるほど冷たい水に、アケの土にまみれた手がかじかんでいく。
「私が、殺した」
自分の赤い瞳が水飛沫の合間に水面に映るたび、父の生気のない瞳が脳裏に思い浮かぶ。同時に、母が死ぬ前の、生き生きと日々を過ごす父の姿も。
「鬼だ」
水面に映る自分自身を殴り終えて、アケは独り呟いた。目の前にある顔はところどころ汚れ、かさついた唇は血の気が薄い。乱れた白髪と相まって、まるで幽鬼のよう。人喰いの鬼と呼ばれるにふさわしい姿。
アケは、かじかんだ指を震えさせて、自らの首筋へと伸ばした。背を丸めて、喉もとを弱々しく引っかく。
胃の底が、喉が、渇いて仕方なかった。墓地であの匂いを嗅いでからずっと、気がつかないふりをしていた。自らの内側がひび割れていくような渇き。それはあの夜よりも強く、彼女を蝕んでいる気がした。
目の前の水には、雲間から顔を出した太陽が映っている。すがるように、ゆらめくそれを手のひらで掬って飲んだ。案の定、渇きは潤わない。この渇きを満たすものは、あの赤い球体だけなのだろう。そう悟ると、アケは渇いた喉の奥から悲憤に満ちた唸りを上げた。
(いつから、こうなってしまったのだろう)
それとも、最初から「人でなし」だったのだろうか。アケは漠然とそう考えながら、だらりと腕を下ろした。体の内側は気が狂いそうな渇きを湛えているというのに、涙がこんこんと湧いてきて、胸の奥が切なくなる。
水際に下ろした彼女の手が、ゆっくりと握りしめられる。アケは驚いて手の甲を見る。握った手の内に、何か硬い感触を見つけたのだ。
枯れた草の根に絡まった何か。鈍色の正体に直感を覚えて、アケはすぐにそれを拾い上げた。
アケの手のひらに収まったのは、古い鋏であった。持ち手の部分はところどころ錆びているが、開いた刃はまだわずかな光沢を残している。枝切り用の鋏だ。
アケは、水面に映る自分の姿と古い鋏とを交互に見やった。そして、ごくりと形ばかりの嚥下をした。
仏前で手をあわせるように、諸手で鋏の持ち手を包み込む。その切っ先は、飢え渇く化物の喉もとへ。アケが思いきりそこを貫けば、いかに人喰いの鬼とて無事では済むまい。
鋭い刃が、アケの白い喉もとに何度も触れては離れる。父が獲ってきた動物の皮を剥いだことのあるアケでも、ヒトの肉に刃を突き立てたことなどない。ましてや自分自身になど尚更。
生き物を屠るときどれほどの血が流れるのか、アケは知っている。ザクロのように鮮やかな赤。きっとアケが喉もとに刃を突き立てれば、同じような赤が沼の水に流れ込むことだろう。
しかし、それがどれほどの痛みを伴うのかは、彼女には想像もつかないことだった。
ゆえに、彼女の手は震えていた。震える手で掴んだ鋏は切っ先が上手く定まりきらず、アケの喉と空気との間を行ったり来たり。
水面に映る太陽が木々の向こうに顔を隠し、明るかった空が暗く黒く染まりはじめたころ。アケは静かに鋏を下ろした。その喉は、昼間と変わらず白いまま。
結局、「人でなし」の娘は死の恐ろしさに勝てなかった。
アケは、これから先人間を目の前にしたとき、この身を裂くような飢えを満たすため、自分が何をしでかすかわからなかった。
真っ当な人間には必ず大切な人がいて、だから誰かが死ねばその周囲の人間の誰かに、あの穴が開く。そしてその穴の中には、アケの飢えを満たすあの赤い球体がある。
きっとこのままこの人喰いの鬼を放っておけば、これから何人もの人が傷つくに違いない。そんなわかりきった未来も、すっかり変わってしまった体も、吐き気がするほど恐ろしい。この恐怖を拭い去る方法など、彼女には自分の死以外に思い浮かばない。
しかし、それ以上に、やはり死ぬのは恐ろしかった。
自分の死を想いながらアケが鋏を喉に突きつけたとき、彼女はあの黒い穴を、真正面から見つめているような気分になった。決して光が射さない、底の見えない黒い穴。彼女を人ではない何かに堕とす穴。未知の領域、根の国の底。
アケは、鋏を手放すと袂から小さな巾着を取り出した。墓地からここにつくまでの間、袂にそれが入っていることに気がついたのだ。巾着の中には干したザクロの実が入っている。どうやらアケが家を飛びだすとき、咄嗟に掴んできてしまったらしかった。
アケは巾着からザクロの実を数粒取り出すと、口に放り込んだ。甘酸っぱい香りと味が、少しだけ彼女の渇きを満たしてくれる気がした。
暗くなってきた沼の水面には、アケの白く長い髪が映っている。背中までかかる長さの髪だ。鋏をもう一度握りしめると、アケはそれに刃を入れた。
ぱらぱらと、白い毛が水面に落ちていく。水面を鏡にして肩のあたりの長さで切った髪は、毛先が揃わずがたついている。
なんてみっともない姿だろうと、アケは自嘲して鼻で笑う。そして立ち上がると、またふらりと歩きだす。
どこに向かうのかなど、決まっていない。ただ、人のいないところに行きたかった。これ以上、人であることから離れたくなかった。
そうして山中をさまよって数日、アケは人の住まなくなった家を見つけ、そこへこもることにした。彼女を「人でなし」にした飢えが、まだ人の心を持っているうちに、自分を殺してくれることを願って。
そして、家を見つけるまでの間、山中をさまようみすぼらしくも浮世離れした白髪の娘を見た麓の人間は、こう言ったのだった。
隠岳山に人喰いの鬼がでた、と。
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