第五節 穴、穴、穴②

 幾度昼と夜を繰り返しただろうか。いくつ山と谷を越えただろうか。それがわからなくなったころ、ようやくアケは足を止めた。何もない木々の間を呆然と見つめ、かさついた唇から、白い息を昇らせていく。

 何かが、アケを呼んでいる。白む木々の向こう側、何かがアケの腹に糸をくくりつけて、それを引っ張っている。そんな気がしてならない。

 やがて、彼女は体の引き寄せられるほうへと歩きだした。何日も山や林や方ぼうを駆け回ったアケの裸足は泥だらけで、擦り傷にまみれていた。しかし、彼女の体は不思議と疲れを知らず、まだあと何日だって走れそうだった。

 しばらく歩いて、アケは再び足を止めた。そこは、山の斜面を切り開いて作られた、小さな墓地であった。

 高くそびえる杉の木の間から、アケはその墓地を見ていた。墓地には人々が集まり、お経を読むなだらかな声が響いている。墓石を前に集まる老若男女は皆喪服姿で、一心に手をあわせている。

 読経が終わると、皆それぞれに立ち上がり、その中で中年の女性がアケのいるほうへと振り返る。その胸元を見て、アケは息を飲んだ。

 あの夜、父の胸にあったものと同じ穴が、女性の胸元に開いていた。いや、その女性だけではない。女性の隣に立つ息子らしき青年の胸にも、その妹らしき少女の胸にも、その近くにいた老夫婦の胸にも、あの穴はあった。底の知れぬ黒が、人々の胸にぽっかりと口を開けていた。

 そこに、アケの鼻先をあの匂いが掠めた。ザクロのような、あの甘い匂い。母の死後、家中に満ちていた匂い。思わず一歩足を引いたアケを根の国の底から検分するような、ずらりと並んだ黒い穴、穴、穴。

 擦り傷のできたアケの足が、ひりひりと痛んでいる。それは目の前の出来事と、あの夜の出来事が決して夢ではなかったということの、紛れもない証明であった。

 アケの足が、二歩、三歩と退いていく。両手は宙を掴んで、行き場をなくしていた。そんな彼女に気がつかない女性が、胸に穴を開けたまま口を押えて泣きはじめた。その胸の穴から、涙から。一度意識してしまうと、穴が開いている人も開いていない人も、すべての人から甘ったるい匂いがした。

 アケは今すぐここから離れなければならないと思いながら、彼らから目が離せなかった。女性のそばにいた娘らしき小さな女の子は、泣く母親におろおろと狼狽えている。そんな彼女を、兄の青年が頭をなでて慰めている。その光景に、アケの足は止まった。

 同じような状況が自分にもあったことを、思い出したのだ。


 昔、アケがまだ幼かったころ、母方の祖母が亡くなったときのことだ。一家揃って集落から少し離れた祖父母の家に行ったおぼろげな記憶が、どういうわけか今になって蘇ってきた。

 まだ死の概念がよくわかっていなかったアケは、棺の中で静かに眠っている祖母と、大粒の涙を流す叔父の関連性がよくわからず、首を傾げていた。

 どうしてあんなに叔父さんは泣いているのかと母に問うたとき、亡き母はこう言っていた。

 人が大切な人を亡くしたときに泣くのは、大切な人を失ったことでできた穴を、埋めるためなのだと。悲しみだけが、その穴を癒すことができるのだと。


 あらためて、アケは死者を弔う人々を見た。その胸に開いた穴は黒々と深く、あの夜の父と同じだ。その底に埋まっているのは、きっと、あの赤い球体。今までのどんなザクロより、香しく、甘い――


 どさり。雪の上に何かが落ちる音がした。木の根に足を引っかけて、アケが雪の上に腰を打ちつけた音だった。

 泥にまみれた素足が、何度も雪をかく。力が抜けて上手く踏ん張りが利かず、爪先は虚しく空を切るばかりだ。

 それまで彼女が振り返らないようにしていた現実が、ぬるりと背後から絡みついて、彼女を呑み込もうとしている気がした。胃の奥からせり上がる嫌悪感。それを抑えようと口に手を当てるも、震える指先は上手く口を塞げず、そのことで焦って余計に息が上がる。

 いまだ鼻を擽る芳香。その甘さに、鳥肌が立つ。それが何の匂いなのか、アケはすでに知ってしまった。それ故に今まで以上にその匂いが恐ろしく、アケは力の抜けた腰に鞭を打って立ち上がると、また走りだした。


 山の斜面を、アケは転がるようにして下っていく。途中、何度も吐きそうになってえずく。いっそ何か吐き出せたらもう少し楽になっただろうが、何日も食べていないアケの腹の中は空っぽだった。


 アケが目にしたあの黒い穴。あれはきっと、「大切な人を亡くした穴」。そして、アケがあの夜食べた赤い球体は「穴を埋める悲しみ」なのだろう。さきほどの人々の様子と昔の母の言葉から、アケはそう推測した。

 「悲しみだけが、穴を癒す」。それが本当なら、アケが「悲しみ」を食べてしまったことで、父はあの穴を塞げなくなってしまった。だからあんなふうに心の均衡を保てなくなり、最後には――


 どこまでも白い雪原の中を、アケの白い髪がたなびく。誰もいない銀世界で、アケは言葉にならない声を張り上げた。目尻に浮かんだ涙は、頬に尾を引いて流れていった。

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