第五節 穴、穴、穴①

 次の日の夕暮れ、アケは上機嫌に鼻歌を歌いながら、夕食の片づけをしていた。


 早朝。肌寒い中彼女が目を覚ますと、昨夜父の胸の上に開いていた穴は綺麗さっぱりなくなっていた。ああ、やはりあれは夢だったのだ。そう胸を撫で下ろすと同時に、アケはあることに気がつく。

 あの、ザクロのような甘酸っぱい匂いがしない。あれほどしつこく、家中どこに行っても立ち込めていた匂いが、まるで嘘だったかのように消えている。

 いい匂いではあったが、同時に不気味な現象であったそれがないと気がつくと、アケはやっと解放された気がして、胸いっぱいに深呼吸をした。

 甘さなどない、冷たい冬の朝の空気。久々の清々しい感覚に、アケは思いっきり伸びをして起き上がった。心なしか、いつもより体も軽い気がした。


 うれしいことは、それだけではなかった。

 夕食のとき、父があの新しい半纏を着ていたのだ。それも、何食わぬ顔で。

 昨日あんなに悲しそうにしていたから、アケはてっきり、もう父はあの半纏を着てくれないだろうと思っていた。見るのも嫌なんじゃないかと思っていた。

 それが、昨日の様子はどこ吹く風で。父は藍色の縞模様を、当たり前のように身にまとっている。母の面影を思い出して嗚咽を漏らすわけでもなく、空元気を装うでもなく、ただ普通に半纏を着ている。

 顔色もよさそうで、むしろいつもより活力を感じる。夕食のあとも、アケが今日あった出来事を話すのを、笑って聞いてくれた。笑顔の裏の翳りなど微塵も感じられない。その様子はまるで、母が亡くなる前の父に戻ったようだった。

 きっと、あの夢は吉夢だったのだ。アケはそう思うことにした。不気味な夢であったが、そういう夢のほうが、かえっていい出来事を呼び寄せてくれることがあるのかもしれない、と。


 それから、祥吉は人が変わったように明るくなった。いやこの場合、元に戻ったようにというべきなのかもしれない。

 夜中に酒を飲みながらすすり泣くことも、昼間畑でぼんやりすることもない。毎日にこにこと笑顔で、仕事に精を出している。その姿を見て、まるでつばきを亡くした悲しみを、どこかに落っことしてきたんじゃないかと冗談を言う者もいた。

 アケは、やっとあのころの父が戻ってきたと、うれしかった。三人で暮らしていたころの、陽気で優しい父。逞しく、頼りがいのある父。これでやっと、母も心配することなく彼岸で暮らしていけることだろうと、アケは仏壇に手をあわせて思ったものだった。


 しかし、人間万事塞翁が馬というように、やはりいいことというものはそう長くは続かないのだった。


 ザクロの香りがしなくなってから、ひと月がたったころ。祥吉の様子がおかしくなりはじめた。急に、怒りやすくなったのだ。

 それまでなら何ということもなかったこと。たとえば、居間の戸を締め忘れたりだとか、少し食事の味つけが濃くなってしまったりだとか。

 それまでの祥吉であったなら、笑って済ますか、少し小言を言う程度か。それで済んでいたようなことに、怒鳴り声を上げるようになった。

 毎回というわけではない。それまでと同じように済んでいくこともある。だがそれがアケにとっては余計に不可解に思えた。

 それに、そうして怒鳴ったあとも父は変だった。

 「そんなことで」と思うような些細な事柄で外に聞こえるほど大きな声で怒鳴られては、いったいどうしたのかとアケも戸惑って、次の瞬間には父は何事もなかったかのようにけろりとしているのだ。

 アケは心配したが、祥吉本人は大してそのことを気にとめていないようだった。それまでと同じように畑へ行って仕事に精を出し、それまでと同じように、夕方には家へ帰ってきた。

 時がたつにつれ、怒鳴る頻度は多くなった。だが、祥吉の異変はそれだけでは終わらなかった。怒鳴るようになってから二週間がたち、今度は何もないのに大笑いをするようになったのだ。

 本当に、何もないところを見て、腹を抱えて笑っているのだ。何もおかしいことは起こっていないのに、突然狂ったように笑いだすのだ。

 それから少しして、父が何もないところをぼんやりと見ているのを見かけることが多くなった。仕事中も同じように、魂が抜けたように立ち尽くしていることがあるのだと、アケは近所の知人から聞いた。

 何かがおかしい、どうしてこうなってしまったのだろう。そう思いながら、アケにこれといって何かできることがあるわけでもなく、ただ時が過ぎていくのみであった。


 そして、つばきが亡くなってから五か月がたつころ。とうとう祥吉はおかしくなってしまった。

 その日の朝、アケはいつもと同じように父の隣で目を覚ました。薄暗い中、隣の布団を見ると、珍しくまだ父が眠っていた。

 やはり最近疲れていて、だから父はあんなふうに少しおかしくなってしまっているんだろうか。そう思いながら、アケは父親を起こそうと、反対を向いて寝ているその肩に手をかけた。

 しかしどれだけゆすっても父は起きない。呼びかけても反応すらしない。あまりに反応がないので、アケが肩をゆする手にも自然と力が入ってしまい、反動でごろりと、父は仰向けになった。

 そして、目が合ってしまった。

「ひっ」

 アケの喉が、引きつった声を上げる。布団の上で寝転がる父。その目は、虚ろに見開かれていた。

 目の端は血走って赤く、瞳孔はいったい何を捉えているのか伺い知れない。生理的に瞬きをする以外、動こうという意思が感じられない瞼。見開かれた生気のない瞳は、あの夜に父の胸に開いた穴のように底が知れない。

 一目で、アケは異常だと悟った。

 呼吸はある。

 心臓も動いている。

 だが、昨日まで曲がりなりにもそこにあった父という人格は潰えて、今目の前にあるのは父だった何かである。


 気がつけば、アケは走りだしていた。

 嗚咽を呑み込んで、裸足で霜を踏んで、白い息を上げて。

 あぜ道を駆けた。川を越えた。林を突き進んだ。

 冬の寒さはアケの体を幾度も突き刺し、無慈悲な雪は彼女を責め立てるようにその歩みを邪魔した。

 だがアケは休むことなく走り続けた。そうでなければ、彼女の背後に迫る、直視に堪えない黒々とした事実に追いつかれてしまう気がして。

(どうして)

 明朝に降りた霜が、彼女の裸足の下で砕ける音がした。

 ずっと走りながら、アケは「どうして」という単語を胸の内で繰り返していた。

 どうして父はああなってしまったのか。

 どうして母は死んでしまったのか。

 どうしてあの温かな日々は戻ってこなかったのか。

 当然、無機質な雪の世界に答えてくれる者はいない。ゆえにその問いかけはアケの中で塵のように積もっていくばかりであった。

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