第二節 朱色、月空、囲炉裏の火④
「なあ、お前。やっぱり山を降りたほうがいいよ」
夜中、珍しくアケが囲炉裏のそばに寄って座ると、突然そんなことを言い出した。
「なぜ」
当然、ガランはアケにそう問いかける。彼女は出会ったとき以来、今まで彼に山を下りろとも出ていけとも言わなかった。
それはもちろんアケのガランへの諦めがあったからであるだろうし、アケからガランに向けられる言葉はお世辞にも愛嬌があるとは言えないものであった。
それでも日に日に少しは言葉の節々にあったトゲが丸くなって、ある種の親しみが垣間見える瞬間もあったのだ。なのに、なぜ今さら山を下りたほうがいいなどというのか。
「だって、やっぱり変だ」
アケは囲炉裏に小さな枝をくべた。
「お前は死にたいはずなのに、ああしてウサギを狩ってきた」
枝は見る見るうちに火に呑み込まれていく。それを見送って、アケはガランのほうを振り向いた。
「なあ、ガラン。人がほかの生き物を食べるのは、飢えを満たして、生きていくためだ」
アケの袖には、小さな薄赤のシミが点々とついている。昼間にウサギを処理した際についたシミだ。気がついてすぐに水で揉み洗いをしていたが、落ちきらなかったのだろう。ガランはなぜか、その赤くぼやけたシミから目が離せなかった。
「人は、ほかの何かの命を奪って、飢えを満たさなければ生きていけない。魚を釣って、獣を狩って、木々の実りをもいで。人は昔からそうして、ほかの命の上に立ってきた」
それはある種の弱肉強食。他を食らって生きるのは何も人間に限られたことではない。生けとし生けるものは皆、己の命をほかの何かの上に成り立たせている。それはガランもこの山で過ごし初めてからというもの、以前よりも強く感じることとなった、世の理というものであった。
「ガラン。お前は死にたいと言うくせに、ほかの生き物の命を奪ってまで、ここにいようとしている」
それって、やっぱり変だ。ぽつりと呟いたアケの声は、二人きりの部屋の中で、どこに消えることもなく響いた。
「ガラン。私、思うんだ。ガラン」
アケは居住まいを正すと、あらためてガランに向き合った。ガランもハッとして、アケの赤い瞳を見つめる。
「お前、本当は『死にたい』じゃないんじゃないのか」
ぱちんと、火の爆ぜる音がした。
「お前自身が気づいていない、お前の本心が望んでいることは、本当は『死にたい』じゃないんじゃないのか。お前の『死にたい』は、それを叶えるための手段にすぎないんじゃないのか」
アケの乾いた唇が、彼女の言葉の一音一音に開いては閉じる。ガランの黒い瞳には、そのひとつひとつが、不思議とゆっくり動いているように映った。
自分は本当は「死にたい」のではないんじゃないか。アケの言ったその言葉を、ガランは己の内で繰り返す。繰り返して、それに怒るわけではない。ただ、その言葉を己の内で消化するために、瞬きをした。
「なあ、ガラン。お前は変なやつだし、ほかの人間と違って美味しそうな匂いなんてこれっぽっちもしない」
アケは、囁くような小さな声で、ガランに語り続ける。眉間にしわを寄せて、難しそうな顔で。
その手には、小さな巾着が握られている。ガランは、その巾着に見覚えがあった。アケがときどき、干したザクロの実を取り出していた巾着だ。だが巾着は薄っぺらで、もうザクロは入っていないようだ。
「けれど、お前はちゃんと塩辛いのも酸いのも甘いのもわかる。ちゃんと腹が減って、何かを食べてそれを満たそうとする。髪の色も目の色も、カラスの羽みたいに真っ黒だ」
アケの手にある巾着に、大きくしわが寄った。彼女が握りしめたからだ。
「お前は人間だ。ちゃんと人間なんだから、あのウサギを食べたら、もう山を下りろ。それでもう一度、お前が何をしたいのか考えたほうがいい」
言い終わると、彼女は空っぽの巾着を囲炉裏の火にくべた。巾着を手放したアケの手は、少し震えていた。ガランには、それがなぜなのかわからなかった。
その晩、囲炉裏のそばで横になって、ガランはアケの言葉を再び胸の中で繰り返した。
自分は、本当は何をしたいのか。何を望んでいるのか。考えても考えても、アケに喰われて死んでしまいたいという以上の答えはでない。
ガランは起き上がると、外にでた。真夜中の山の空気は、昼間よりも鋭く彼の頬を刺す。しかし、答えを探しているうちに熱を持ってしまった彼の頭には、それでちょうどいいぐらいだった。
ガランが天を見上げると、その夜空には珍しく雲一つなく、半月が煌々と輝いていた。
(なぜ、アケなんだろうか)
ふと、そんなことを思った。なぜ、自分の命を差し出す相手は、彼女がいいと思うのだろうか、と。
獣に喰われることと、彼女のような言葉の通じる相手に喰われること。そのどちらがいいかと問われれば、後者であると、ガランはかつてアケの前で言いきった。
その理由は、彼自身でも実のところ上手く言葉にできていない。しかし、その二つはまったく違うもので、自分は人の姿をして人の言葉を話す彼女にこそ、己の命を差し出す価値があると思うのだと、それだけははっきりしている。
ガランが息をはくと、それは白く煙り、やがて宙に消えていった。そういえば、と、ガランは思い出す。アケの息も、彼と同じように白く煙るのだ。あんなに白く、冷たそうな色の肌をしているのに。そういうところは、まるで人間と変わらない。
彼は子どもがするように、戯れに長い息を宙に吹く。とたんに視界は白い靄に覆われて、黒塗りの夜空に輝く星々は霞んでしまう。しかしそれでも月は姿を隠さず、天に座している。
ガランは、己の心臓のあたりに手を当てると、気がつかないうちにその手を握りしめていた。凍えるほど寒い夜の空気の中で、彼の指先は熱く、心臓の鼓動の速さを受け止めている。鼻の奥にもツンと熱がこもって、少し痛いぐらいだ。
ガランはそっと空に手を伸ばすと、熱い指先で半月の輪郭をなぞった。指先でつまめるほどの、小さな月。こんな夜を、いつかどこかで過ごした気がする。けれど、それがいつなのか自分自身でもわからない。
何もかも、ガランにはわからない。己の願いも、記憶も、すべてが曖昧だ。あの月のように、小さくともはっきりと輝くものなど何もない。
その事実が寒さとなり彼の身に刺さっている気がして、彼は月に背を向けた。そして家の中に戻ると、囲炉裏のそばで、朝まで体を丸めて眠ったのであった。
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