第三節 宵闇、鈍色、悔恨の息①

 ガランがウサギを撃ってから、さらに一週間。ガランは、捌いたウサギの肉を少しずつ食べていった。ウサギの肉は少し甘く、血の匂いの中に、ほのかに乾いた草の匂いがした。肉の保存の仕方は、アケから教わった。

 この際だから食べられるところはすべて食べようと、ガランがウサギの食べ方について考えている横で、アケはこの一週間、水以外何も口にしていなかった。

 ガランの作る粥にも汁物にも一切興味を示さないのはそれまでと同じだが、唯一口にしていたザクロの実すら食べているところを見ない。やはり、あの巾着に入っていたもので最後だったのだ。ガランは薄々考えていたことが当たったのだと、確信していた。

 アケは、以前にも増して部屋の隅から動かなくなっていた。口数も少なくなり、ガランが山歩きから戻って囲炉裏の前で収穫物を確かめているときも彼のそばに寄ってこない。

 ガランは最初、アケは何か自分に怒っているのだろうかと思っていたが、どうも違うようだった。部屋の隅で背を丸める彼女の姿は、手負いの獣によく似ていた。傷に触れられるのを恐れ、隠している。傷が開いてしまわないよう、ひたすら動かずにいる。そんな様子であった。


 ウサギの肉は少しずつ減っていくのに、アケの言う、ガランの「本当の願い」は一つとして見つからないままだった。

 山の中を歩いているときも、帰ってきて野草を鍋に放り込んでいるときも、寝る前に囲炉裏の炎の揺らぎを見ているときも。ガランは頭の隅っこで、ずっとそのことを考えていた。考えてはいたのだが、いまだ胸の内の空洞に適当な名前をつけるだけの答えは見つからない。

 いくら少しずつ食べていくにしても、ウサギは小さく、肉もそう多くはない。そうこうして日々を消費していくうちに、ウサギの肉もついに最後の一欠片となった。

 ガランは最後のウサギの肉を鍋で煮て汁物にした。それを平らげて、鍋が空になったとき。彼は急に木戸のほうへ振り向いた。

 木戸はいつも通り、硬く閉じられている。その向こう側に、ガランは耳をそばだてていた。まるで巣穴からでてきたばかりのウサギのように、自身の耳がピンと張るのを、彼はありありと感じていた。

 ガランはアケのほうをちらりと見てから、立ち上がった。アケは変わらず膝に顔を埋めている。

 足音一つ立てず、彼は木戸へと忍び寄る。一歩ずつ、爪先から床につけて、足の裏の肉で体重を柔らかく受け止め、音を殺す。藁靴も履かずに土間を素足で踏んで、木戸の前で立ち止まる。

 ガランが立ち止まってから少し間が空いて、戸の向こうに何かが当たる小さな音がした。次いでもう少し大きい、何かが木戸を叩く音。三度目に音が鳴ったとき、木戸の向こうから男の声がして、戸が開いた。


 木戸の向こうから現れたのは、若い男女の二人組だった。男のほうは中肉中背で、身なりはガランとそう変わらない。女のほうはアケと同じように頭に布を被っているが、アケよりずっと上等な布と着物だった。

 二人は、一晩だけでいいからここに泊めてほしいとガランに頼み込んできた。彼はまたアケのほうを盗み見たが、アケは彼がここにやってきた最初の晩と違って、指先一つ動かしやしない。それでもガランが彼女に声をかけると、ぎこちなく頭を動かして、どうやら頷いているらしかった。

 囲炉裏のそばに腰を下ろした二人は、駆け落ちをしてきたのだと、ガランに告げた。自分たちと同じような格好をしたアケとガランを見て、同じ駆け落ちの身と勘違いしたのだろう。

 男はそれまでの緊張が解けたせいか、囲炉裏の火に頬を赤くして、これまでの彼らのいきさつを饒舌に語った。もっともガランは彼らの身の上話などとんと興味がなく、眠気も相まって半分も聞いていなかったが。

 身の上話を終えると、駆け落ちの二人はガランたちが使っていない奥の部屋で就寝することになった。ガランもやっと解放されたと、いつものように囲炉裏のそばで横になったのだった。


 深夜、フクロウも羽音を隠す時間。木のきしむ小さな音に、ガランは目を覚ました。

 この古い家は、夜に眠っているとよく風で家鳴りが起きる。しかしこの音はガランのすぐ目の前の床で鳴っている。だから、単なる風の家鳴りではない。

 ガランは、薄っすらと瞼を開いた。寝ているのか起きているのか、わからないぐらい細く。すると、彼の目の前を、痩せた白い足がゆっくりと通り過ぎていった。それがアケの足であるということは、彼にはすぐにわかった。

 アケはゆっくりと、奥の部屋へと向かっていた。足音を立てないようにしているのだろうが、慣れていないのか、音を殺しきれずにときどき床が小さくきしむ。

 こんな夜更けに、彼女はいったい何をしているのか。自分の記憶も本当の願いも何一つわからないガランでも、彼女がしようとしていることなどわかりきっていた。

 彼女は、アケは、食べようとしているのだ。今宵この家に偶然訪れた彼らを。

 アケは、そっと奥の間の戸を引く。古い戸はぎこちなくつっかえながらも、静かに開いていった。敷居を跨いでいく彼女の手には、鈍色の刃が握られている。草を刈るときに使うような、小さな鎌だ。その鉛色が夜闇に消えていくのを見て、ガランは体を起こした。そして、足音を殺して彼女のあとを追うのであった。

 ガランは、彼女を止めようなどとは毛ほども思ってはいなかった。ただあるのは、純粋な興味であった。

 人喰いの鬼は、いかにして人を喰らうのか。それを知るために、彼は開けっ放しの戸の影からそっと、奥の間をのぞいた。


 アケは、二人寄り添って眠る男女の枕もとに立って、彼らを見下ろしていた。

 彼女の目は普段よりいっそう朱く、暗闇の中で少し光って見える。その朱い瞳と、ゆらりと立っている細い体。布の外れたジグザクの白い髪。俯きがちな丸い背と、いつもより荒い息。手に握られた刃。

 どれも尋常ではない。日常ではない。只人のそれではない。正しく、今の彼女は幽鬼そのものであった。


 アケは男の頭の前に膝をつき、その喉もとに鎌の刃を押し当てた。静かな部屋で、彼女は自分の深く呼吸をする音がひときわ大きく聞こえる気がした。

 冷えた空気を肺に取り込んで、興奮で熱く湿った息がはかれる。自分自身の熱で、彼女の頭の中もぐらぐらと揺れていた。あと少し、彼女が鎌の刃を食い込ませれば、男の喉は切り裂かれる。

(そうすれば、またアレが食べられる)

 アケは、自身の唇に舌を這わせた。端から端まで滑らせて、乾いたソレを湿らせる。

 甘くて、酸っぱいアレ。ザクロに似ていて、けれどもっとずっと美味しいアレ。食べたのはもうずいぶん前な気がするのに、忘れられないあの味。思い出すだけで、耳の奥がドクドクと脈打って、口の中いっぱいに涎が溢れる。アケは飲み込んだ涎さえ、どこか甘酸っぱいような気がしていた。

 目の前の温かさを刈りとろう。ザクロの実をもぐように。手の内にある獲物を見つめる目には、獲物を狩る獣の熱が宿っている。

 心の底から、アケは歓喜していた。口の端から笑い声が零れ出そうだった。もうずっと、腹は減らないのに飢えて飢えて仕方がない。干したザクロの実で誤魔化しても誤魔化しきれず、ついにそれもつきてしまった。

 ずいぶん長いこと我慢してきたのだ。ずっとそうしなければならないと思ってきた。だからこんな山奥にまできた。けれどもう、アケは我慢できそうになかった。

 薄っすらとだが確実に、いい匂いがするのだ。ザクロのような匂いが。この男の喉を切り裂けば、もっといい匂いがするに違いないと、彼女の本能がそう囁いている。

(そう、きっと、あのときと同じ――)

 瞬間、彼女の頭の内を駆け巡る記憶。


 赤い果実。見開かれた目。

 黒い、穴。穴。穴。


 熱は冷めていく。白い腕は震えだす。

 アケは男の喉から鎌の刃を離すと、絶叫した。


 絹を裂くような娘の悲鳴に、当然駆け落ちの二人は目を覚ました。そして狂ったように叫ぶ白髪赤目の娘と、床に落ちた鎌。その異様な光景に、一拍遅れて二人とも悲鳴を上げる。そして彼らはのぞき込んでいたガランを突き飛ばして奥の間を飛びだし、背負ってきた荷物も忘れ、転がるようにして家を出ていった。

 残ったのは、床にへたり込んだアケと、呆然とそれを見ているガラン。そして、開け放たれた木戸から舞い込む、白い雪。一瞬にして狂騒から静寂へと戻った部屋を、冬山の冷気がじわじわと侵略するのだった。

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