第二節 朱色、月空、囲炉裏の火③

 ガランはそれから、日が昇ると野草やら魚やらを探して山にでた。そして食べられるものをある程度確保すると、家に帰る日々を繰り返した。

 彼は帰ってくるとまず、囲炉裏のそばでその日持ち帰ったものを検分した。

 彼が囲炉裏のそばに収穫物を並べていると、いつもいつの間にかアケが横からそれをのぞき込んできて、一言二言何かを言っていく。それは毒だの、それは擦り傷に効くだの。言うだけ言って、また部屋の隅へ去っていく。

 そのとき以外、アケはあまりガランに話しかけることもなく、また家から出ていくこともなかった。ガランもときどき彼女に質問をしたが、それにも答えたり答えなかったりだった。

 数日ともに過ごしてガランが気づいたことは、アケはほとんど何も食べないということだった。目の前でガランが粥を作っていても、欲しがるどころか見向きもしない。食べ物を前にして、空腹を我慢しているという素振りもない。

 ただときおり、両手のひらに収まるぐらいの巾着を懐から取り出しては、何か乾いた赤い粒を数粒口に放り込んでいた。

 気になったので、何を食べているのかとガランが問いかけてみると、乾燥させたザクロの実だと返ってきた。だがどう考えても、常人であればそれと水以外何も口にせず平気でいることなんてできない。「数日前に人を食べたばかりだから腹が減っていない」という彼女の言葉は本当で、彼女は本物の人喰い鬼なのだと、ガランはあらためてそう実感した。


 山の家で生活するようになってしばらくたち、ガランは彼らが使っていない奥の部屋に、猟銃がしまわれているのを見つけた。

 よく使いこまれた猟銃の型は古いものであったが、ずいぶんと丁寧に手入れされていて、まだまだ充分に使えそうだった。弾もすぐそばにしまわれていた。

 これがあれば、野ウサギぐらいは仕留められるのではないだろうか。彼は山を歩き回っているうちに、ウサギの姿を幾度か見かけたことがあった。場所も覚えている。弾と銃の状態を確かめて、ガランは籠と一緒に銃を背負った。


 銃を持って以前ウサギを見かけたあたりに赴くと、案の定、クマザサの葉の間にウサギの耳が立っているのを見つけた。

 自身でも不思議ではあったが、ガランは、己が手にした武器の使い方を知っていた。銃の扱いなど、寺で教えてくれるわけがない。実際、彼は記憶にある限り――すなわち、あの寺で目覚めてから今日に至るまで、銃を手にしたことなどなかった。

 だが、わかるのだ。その冷たい銃身に指を滑らせた瞬間から、彼はこれが何をする道具で、どう扱えばこれを己のために活かせるのか。彼が知るはずのないことを、彼の体は覚えていた。

 木の影から、ガランは獲物を見やる。

 相手はクマザサの葉があたりを覆う中、そこだけ何も生えておらず小道のようになっている場所で、小枝を食んでいる。ガランが見ているのに気がつかないのか、逃げ出す気配もない。

 風はほとんどなく、雪からの照り返しも少ない。ただ雲の切れ間から差し込んだ光が一筋、木々の枝をすり抜けてクマザサの葉を照らしている。

 ガランは、ほう、と短く息をはいた。それから、肩に下げた銃と、家で見つけた弾を手にした。

 引き金のすぐ上にある突っ張った棒――槓桿を上に押し上げ後ろに引いて、弾を込める。槓桿を押して倒すと、弾の装填が完了する。

 それからその場に片膝をついて、肘を落とし、銃床を肩に当てる。脇は締め、銃床に頬をつけ、照準を獲物に定める。

 照門と照星が、ウサギの姿に重なる。一つ、二つと、ガランは己の内で数を数える。天から注ぐ日の光が地上を滑り、葉を、雪を、それからウサギの白い毛を照らす。

 撃ち抜け。ほかの誰でもなく、彼の本能が囁いた。瞬間、呼吸は忘却される。瞼を見開く。彼の指は引き金を引く。

 発砲音。火薬の匂い。肩を打つ衝撃。それらすべてのあとに、ウサギは地に伏した。


 騒めくクマザサの葉を掻き分けて、ガランはウサギのそばに寄った。白い毛皮から赤い血が流れ、雪に染み込んでいく。弾は胸に当たっていた。ウサギはぴくりとも動かず、事切れている。

 ガランは、自分の手に握られた銃を見た。焦げ臭い、鼻に残る匂いと、銃身に走る鈍い黒鉄の光。それから、もう一度ウサギを見る。毛並みは滑らかで、日を反射して雪原のように輝いている。見開いた目は、血と同じ赤だ。そこにすでに生気はなく、開いた瞳孔が無感動に空を見ていた。

 ガランはウサギを掴み上げると、持ってきていた籠に入れる。その指に触れた湿り気のある温かさは、山肌を吹いた風の冷たさに、すぐに消えていった。


(これ、どうやって捌くんだ?)

 家に戻り、囲炉裏の前にウサギを取り出して、ガランはそんなことにふと気がついた。魚ならここに来てからも何度か捌いたが、ウサギから毛皮を剥いで肉を部位ごとに切り分けるというのはどうやったらいいのか見当がつかない。後ろ足を掴んで目の前で宙ぶらりんにしてみるも、ぐったりとしたウサギがそこにいるだけで、答えはでない。

 実のところ、「これだけ銃が扱えるのだから、もしかしたら記憶を失う前の自分は猟師か何かだったのだろうか」となどということを、ガランはついさきほどまで考えていた。しかし今の状況から推察するに、どうやらそれは違うようであった。

(どうしたものか。試しに適当なところから刃を入れてみようか)

 そう思ってガランが懐から小刀を出そうとしたとき、ボロ布の頭が彼のそばにひょっこりと姿を現した。

「おい、それ、早く血抜きをしないと肉が傷むぞ。お前、まさか捌き方がわからないのにウサギを獲ってきたのか」

 ため息に、アケのジグザク切りの白い髪が揺れた。

 それから彼女はガランが宙ぶらりんにして持っているウサギを見ると、下手な撃ち方だの、血がたくさんでると肉が傷むから胸じゃなくて頭を撃つべきだのなんだのと、いつも通りぶつくさと独り言を言っていく。

 しかし、今日はいつもと違って、小言をすべて言い終える前に彼女は一度口を止めた。

「なんだ、その目は」

 どうやら、ガランがいつも以上にじっとアケのほうを見ていたのが落ち着かなかったらしい。

「いや、捌き方を知っているんじゃないか、と」

 そう言って、ガランはアケの目の前にウサギをずい、と差し出す。ぶらぶらと揺れるウサギの耳。その向こうにいるアケに、ガランは期待を込めた眼差しを向ける。その二者を交互に見て、アケはまた深くため息をつくのであった。


 アケはガランからウサギと小刀を奪い去るように受け取ると、部屋の外へと足を進めた。

 アケの手つきは少し覚束ないながらも、いい手際であった。

 ウサギの下腹部から喉のあたりまでを小刀で切り開くと内臓を取り出し、足を脱骨させ、動脈に切り込みを入れる。開いた腹を雪に押しつけると、雪が血を吸って真っ赤に染まった。それを何度か繰り返すと、血はほとんどでなくなった。最後に固めた雪で中を綺麗に拭って、血抜きは終わった。

「ほら、お前も手伝え」

 そう言って、アケは血抜きの終わったウサギの足をガランの前に突き出す。持て、ということだった。

 ガランがウサギの足を持つと、アケは今度はウサギの皮を剥いでいった。足首に切れ込みを入れて、着物を脱がすように、綺麗に剥いでいく。

 アケ曰く、ウサギは数日間冷やしておかないといけないらしく、その日のうちには食べられないということだった。

「ウサギって、旨いのか」

 後始末をしながら、ガランはアケに問いかけた。しかしアケは、さあ、と答えるだけであった。

「食べたことがあるんじゃないのか」

 さきほどの手際のよさといい、アケは何度か、ウサギの処理をしたことがあるのだろう。そう思っていたガランにとって、アケの返答は意外なものであった。自分で処理をしたものをまったく食べない、というのは、不自然だ。

「いや、食べたことはある」

 アケは、井戸から汲んだ水で手を清めながら、首を振った。

「ただ、味はわからなかった」

 アケは赤い瞳を伏せる。

「昔からそうだった。米も、野菜も、魚も。味噌も醤油も、酢も、砂糖も。私の舌は普通じゃなくて、生まれてこの方、何を食べても味がしない」

 淡々と、ただ淡々とアケは話続ける。

「熱さも、冷たさもちゃんと感じる。食感や、匂いも。ただ、味だけを感じない。何を食べても、霞を食べているようで味がしなかった。……ただ、一つのものをのぞいては」

 声色が、ぐっと低く、冷たくなる。

「ザクロの実だけだ。あれだけが、甘いと感じていた」

 アケの言葉を聞いて、ガランは彼女がときどき食べている赤い粒を思い出す。乾燥させた、ザクロの実。ずっと、なぜザクロなのだろうかと思っていたが、その話を聞いて彼はやっと納得がいったのであった。

「なら、どうしてウサギを食べたんだ」

 まったく味がしないものを食べる、という経験は、今のところガランにはない。だが、わざわざ味がしないものを食べたいかと聞かれたら、自分なら首を縦には振らないだろう。それぐらいのことは、ガランにもわかった。

「それは、父さんが」

 そう言いかけて、アケは手を止めた。凍っていないとはいえ、冬の井戸水は冷たい。だからだろうか、ウサギの血でうっすらと赤く染まった雫がしたたる指は、細かく震えていた。それでも彼女は俯いたまま、手を拭いもせずに、しばらくただじっと水面を見つめて黙りこくっている。

 アケ。どうかしたのかとガランが声をかけると、彼女はびくりと肩を竦めて顔を上げた。そして「なんでもない」と呟くと、布きれで手を拭うのだった。

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