其十三
次の日、環世はまったくの非番だった。一時期、人手不足の時は、丸山に「申し訳ない」と頭を下げられながら、午後なり、午前なりと仕事に出ていたので、丸一日というのはしばらくなかった。その時は周りも同じような状況だし、女将も丸山も、休みという休みは取らないで働いていたので、文句は言わなかった。環世も非番になれば本を読むか、目的もなく、何かを書き付けるかしか、やることはなかったので、手持ち無沙汰になるよりはよかった。しかし、半年前には新人が入り、最近はきちんと1日の休みが取れるようになっていたのだが、それでも、非番の過ごし方は変わらなかった。そんな中で、今日の非番はいつものようにではなく、ある場所へ行ってみようと思いついた。
それは先週のことだった、いつものように中抜けで通路のベンチに座っていると珍しく羽岡という仲居がやってきた。タバコを吸う仲居は、他にもいたが、休憩時間がズレているため、一緒になることはほとんどなかった。羽岡も吸うのかと少し驚いたが、そんな顔はせずに、挨拶をした。羽岡も「お疲れ様」というと、袂から最近流行り出した短い銘柄のタバコとオイルのライターを取り出した。ショートヘアの背の高い美人ではあったが、挨拶は交わすが、担当が少し離れているせいか、あまり喋ったことはなかった。少し動作や言動が大雑把で、“色っぽい”というよりは“粋”と言ったほうが、彼女には似合ってる気がした。
この時も和装で足を組み、裾からその長い下腿が少し見えていた。羽岡はタバコを口の端に咥えると、火を付け、顔を上にやりながら、グジラの潮吹きのように煙を上に吹き上げた。
環世は、時折、この背の高い羽岡をみていたが、その美人で気取らない態度に少し興味と好感を寄せていた。担当が、旅館の離れや別館である彼女とは、朝に挨拶を交わすだけで、特に関わり合いになることはなかった。
そして今、隣に彼女が来たのはいいが、キッカケになる話題はないかと思案していた。
「東條さん、もう仕事は慣れたの?確か、寮にすんでるんでしたっけ?」
羽岡は口の端で煙を吐きながら、先に環世に声をかけた。
「はい。そうですね、《
「そうか、もう2年になるんだ。最初来た時は、偉い歳下のお嬢さんが来たなぁと思ってたんだけどね。今、年はいくつなの?」
「はい、今年で19になります。羽岡さんは?」
「来年で成人かぁ。私は、今年で32。もういい歳よね、ここに27歳の時に来てからもう、5年になるわ」
「そうなんですね。」
「これでも、当時は一番の若手だったんだけどね。東條さんと新人さんが入って来たから、私がここじゃ4番目になっちゃった。」
喋ってみるとやはり思った通り気さくで、丸山とは違う親しみやすさを感じた。その後もしばらく寮のことやお互いの担当のことなどを話していた。どうやら彼女は、ここに来るまでは別の仕事を他県でやっていたが、思い切ってこちらに移って、この職を探したのだという。何でそうしたのか、まで聞かなかったのは、彼女の顔が、その時だけ少し悲しさを含んだトーンになったからだった。そして、話の最後に彼女はこんなことを言っていた。
「そう言えば、隣の駅の美術館に、ナントカという今、有名な先生の作品が来週からしばらく来るらしいわ。もし、気になるなら行ってみるといいかも。何か東條さんそういうの好きそうだし。仕事も前ほど忙しくないんだから休みの日にでも行ってみたら?」
その後、少しやりとりをして、彼女は「時間だからと」先に席を立って行ってしまった。灰皿に残った口紅のついた吸い殻が、少しだけ艶めいて見えた。
そして、美術館の展示のことを言われた時は、ほんとは特に興味はなかったので、「覚えておきます。機会があれば是非」と言っただけだったが、その翌々日あたりに、その画家の記事が地元の新聞に広告されていたのを、たまたま目にした。年若くして画壇にデビューして、海外の先端のアートセンスを日本に持ち込んだ奇才なんだとか。新聞に載っている絵はモノクロだったので何を描いているのか正直わからなかったが、その、モノクロからでも伝わる荒々しさが妙に何か惹かれるような気がしていた。
環世は、目覚めて布団の中でボンヤリしていると、急にそのことを思い出したのだった。そして、起き上がると仕度を手早く終わらせ、駅の方に向かった。ホームで電車を待っていると、「反対側に向かえば公子さんの住む街へ行く。公子さん今頃、どうしているだろうか」と線路の先を見つめていた。どこまでも続く線路を、今、公子のところまで向っても、そこへはつかないような気がした。
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