其十二

​滔々と流れる川に目をやると、それは海へと続いていた。どこから来たのかわからないその小さな水流は、小さな滝を下って環世のいる橋の下を流れている。橋もやはり川に合わせて小ぶりな石造りのもので、欄干は足元に可愛らしくついているだけだった。

​そこは人通りの少ない、環世が住む寮のすぐ近くにある。環世は仕事帰りに時々ここに立ち寄り、あまりよく見えない川の音を静かに聞いた。滝から流れる雨のような水の音は疲れた身体に染み入るようで、彼女にとってひとつの癒しだった。時には1時間近くも帰らずにその音を楽しんだ。それは、何もない彼女の心に少しずつ染み渡り、何かを満たしてくれるような気にさせた。

​背後には少し遠くに海が広がり、月が浮かんでいる。環世は、そのどちらにも時間を分けて目をやり、川と海両方を楽しんだ。物語はまだ書き始められていない。彼女の琴線に触れる何かがやってこないのだ。たくさんの人間としゃべり交流する中で、自分の心を知ろうとするが、何かを書こうとするにはまだ薄っぺらいものにしか感じられなかった。

​丸山との交流は楽しいが、心と心というわけではなく、どちらかというと朗読を聞いているような楽しさだった。それに比べると、公子と過ごした時間や、別れの1週間前に感じたあの激しい感情の中にあった温かさは、一体何だったのだろうか。彼女は、それが愛情の一つの形であったことには、まだ気づけずにいた。環世はそれをもう一度感じてみたいと思ったが、表面的な付き合いしかできない彼女には、その方法がわからなかった。初めて触れた愛情を拒むほど、環世は自分を愛せないのだ。

​自分を知る、自分を大切にする、自分を愛する。他人を知る、他人を大切にする、他人を愛する。そのすべてが等しいことだと、どうすれば気づけるのだろうか。卵が先か鶏が先か、他人と自分どちらが卵でどちらが鶏なのか。彼女に愛を説くには、きっかけとなる何かが足りないようだった。

​そして、環世はしばらく眺めると、部屋に戻って簡単な食事と風呂を済ませる。いつも公子の帯を軽く腰に巻いて少し文章を書き、そのまま床に就いた。寝苦しさよりも、安心感があるからそうしていたのだが、彼女はやはりその理由も自分に対して説明ができなかった。

​その日の夜は、明日が非番なので何をしようかと思案していた。大抵は自分の買い物のあと、本を読むか何か書くか海を眺めるかで終わってしまうのだが、たまにはどこかへ出かけてみても良いのかもしれないと思えた。そう思うような環世ではなかったので、彼女自身もその答えに少し驚いたようだ。「どこへ行こう。どこへ行けば、私を見つけるきっかけができるのだろう」そう考えているうちに、環世は寝てしまっていた。暗い部屋には、沈みゆく月の光だけが優しく入り込んでいる。

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