其四
その頃、環世は公子の紹介で、彼女の働く職場の近くにある喫茶店で働き始めた。そこなら、公子の目も届くし、知り合いも多いので何かと便利だろうということだった。公子の職場は、駅で見た大きな口を開けたあの繁華街の中だった。
初めて入った繁華街は、ひっそりとしていた。明け方に店を終えて帰る者もいれば、路上でタバコを吸いながら時間を持て余す者、店の仕入れを受け取る者がぽつんといるだけで、まばらで活気はなかった。
初日は、公子の仕事が非番の日に店までついてきてくれた。保護者の代わりをしてくれたつもりだったのだろう。最初に「この子をよろしく」というようなやりとりのあと、その店のオーナーと雑談をし、環世に「それじゃ、お仕事頑張ってね」と言って、一足先に帰っていった。
環世は最後まで、公子がその辺りで何の仕事をしているかは聞かなかった。店の連中や他の人間の口ぶりから、男性客を取る何らかの仕事であることは間違いなかったが、環世には彼女が何をしていても興味のないことでもあった。
紹介された喫茶店は、繁華街の中だったので、朝から昼間は主に喫茶店で、夜の働き手たちの憩いの場になっていた。少しの休憩を挟み、夜からは酒場になるようだった。働き始めると次第に夜のホールも時折任されることもあり、酒を飲まされることもあったが、酔うこともなく、おいしいと感じることもできなかった。
一方、表の華やかで下品なネオンの裏側では、ネズミやゴキブリが這い回り、とても衛生的とは言えないところがほとんどだった。環世が出勤する時間帯には、終電を逃した酔っぱらいの吐瀉物や排泄物で路地裏が汚れており、彼女の店の路地裏も例外ではなく、幾度となく清掃させられるのには閉口した。
最初はそういった簡単なゴミ出しや洗い物、掃除といった仕事が割り当てられたが、飲み込みが早く、ひと月もしないうちにホールに出るようになった。ほとんどは朝帰りか店終わりの繁華街の連中相手だったが、夕方からの時は、酔っぱらいの相手もこなし、そのあしらい方は日に日に上手くなった。
ある夕方、早番の仕事が終わり、制服から着替えて繁華街を歩いた。ピンクやオレンジ、青、緑と統一感のない、互いに競い合うようなネオンは、それぞれ「私はここだ」と主張しているようで、なんとも滑稽だった。
部屋に戻って遅い夕食を食べることが多かったが、時には繁華街の中の比較的安い中華料理屋やそば屋に立ち寄った。公子は繁華街では顔が広く、仕事の時間にお互い都合がつけば、いろんなところに連れていき、環世の顔を売ってくれた。そのおかげで、個人経営の飲食店などには比較的どこでも入りやすくなっていたし、おまけをつけてくれるときさえあったのだ。
その晩は気分転換に、紅しょうがのたっぷり入った、少し癖のあるチャーハンが自慢の紅楼軒に立ち寄ろうとした時だった。これから始まる乱痴気騒ぎの宴に引き込まれるように、アーケードの入り口からはたくさんの人が流れてきていた。いつものことなので気にしていなかったが、不意に、その中で視界に一つの見たことのある影を捉えた。
あの男だ。
枝のように細く痩せていて背は高い。眼窩はくぼんでいて、その下からは充血した目玉がぎょろりと覗いている。白いシャツをだらしなくズボンから出し、黄土色のスラックスを膝下まで折り曲げ、周りを威嚇するように肩を揺らして歩いていた。環世は、父親が自分を探しに来たことを瞬時に悟った。父親は立ち止まり、窓から中が見える店を食い入るように眺めている。
彼女は咄嗟に今来た道を反対方向に歩き出した。心臓がバクバクする。「ここから離れろ」という頭が鳴らす警報に従うしかなかった。忘れかけていた心の暗闇を必死で払いのけるように早足で移動した。大げさに走ったりして、顔見知りに余計に勘ぐられることを避け、なるべく冷静を装った。忘れ物でも取りに行くような、そんな素振りで歩いた。
アーケードを反対に抜け、駅からではなく、駅のさらに二つ先のバス停まで迂回することにした。
繁華街を抜け、バス停に着く頃には、気持ちは少し落ち着いていた。ギラギラとしたネオンと騒音から離れ、とうとうとしたオレンジの家々の灯りがそうさせたのかもしれない。
「あの男は私を探しに来たのだろう。きっと、こっちに遊びに来ていたろくでなしにでも見られ、噂となって耳に届いたのかもしれない。そうでなければ、こんなところまであの男が来るはずないのだから」と、環世は考えた。見間違い、その線も考えられなくもなかったが、あのぎょろりと血走った目つき、背格好を環世は見違えるはずもないと思えた。
これからのことを思い、バスを待つ環世の目からは、涙がぽとり、ぽとりと垂れていた。公子に話してみようかとも思ったが、解決するようにも思えず、何より話したくなかった。話して理解されなければ、自分を傷つけて終わってしまう。できるなら、父や昔のことは記憶の鉄箱に閉じ込めて永久に葬り去りたかった。
環世の生活は、地べたを這い回るイモムシから、蝶を夢見るサナギへの変態の途中だった。その進化が途端に邪魔されたような気持ちがした。サナギになることさえ許されないのだろうか。バスの中、自身で抱き寄せた両肩は震えていた。
秋の訪れを待つ晩夏の夜は、少し肌寒かった。
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