其五
環世は帯を緩めたまま、しばらくずっと海を眺めていた。この海は、生前、母がずっと求めていた西の海だった。きれいで、青く透き通った朝の海は、いつもどこか現実感を感じられなかった。
ぽつり、ぽつりと海岸に並行して走る自転車や自動車を見送り、時間の流れは緩やかであった。気づけば汗は止まり、呼吸も落ち着いていた。しかし、頭と身体はぐったりとしていた。
部屋の中は公子と暮らしていたところのように簡素だった。違うものと言えば、ものを書く簡単な机とスタンド、それに本棚がその頃より大きくなっていたくらいだ。
(あの時、あのまま父の影に怯えず、公子と二人暮らしていたら、それなりの幸福があったのだろうか。いや、嘆いても悔いても仕方ない。生まれも過去も、誰も変えることはできない。人間には等しくこれからのことしかないのはわかっている。それがどんなに不公平で恵まれない始まりであったとしても…)
環世はあの晩以降、次の行き先を考え始めていた。確かに、その時に見た父親はそれ以来彼女の前に現れることはなかった。しかし、何をしていてもその存在を気にしていなければならず、すれ違う人、店に入ってくる客、すべてに父の影が見えるときさえあった。
冷静を装い、違う彼女でいられたのは、ひとえに父親と別離した状況だったからに他ならなかった。この場所ではその影に怯え、再び、笑みを失い、表情が抜け落ち、言葉を失っていきそうになる自分に抗うことは難しいようにも感じていた。そして、そんな自分を誰も、公子でさえも愛さないだろうと思った。
そんな折、常連との話で、ここよりもっと海沿いの港町に、住み込みで働き手を探している宿か旅館があるのだという話を聞いた。住み込みといっても、聞けば離れたところに寮のようなものがあるらしく、珍しく一人に一部屋あてがわれるのだそうだった。
環世はそのあと、しばらく考え、その話に乗ろうと決めた。ここに来る前とは違い、働き、生活することには慣れてきていたから、きっと違う場所でも多くを望まなければやっていけるだろう。支配される苦痛や失う怖さを抱え続けるよりも、自ら選ぶ孤独が傷を隠してくれるようにも感じていた。
そして、再びその常連が来た時に、環世は思い切って、その旅館の詳細と場所、連絡先を聞いてみた。常連は時々そこに荷物を下ろしに行っているようで、次の機会にでもまだ働き手を探しているか聞いてこようと言った。慣れた客だったので公子とのことも知っていたが、そこは上手くはぐらかすことにした。
「大丈夫、話を聞くだけだから」
そう言って自然に見えるあどけない作り笑いに、常連は丸め込まれてしまうのだった。
その話をいつ、公子に切り出そうか思案したが、そう思っているうちに、あれよあれよと話は進んでいった。どうやら、人手が足りないらしく、できるならすぐにでも働きに来てほしいようだった。常連は「もし興味があるならここに連絡してみなさい」と、電話番号と旅館の名前を書いたメモを環世に渡した。彼らの深い事情に興味はなさそうだったので、多分、得意先への土産くらいに軽く考えていたのかもしれない。しかし、環世が旅館に連絡して、住み込みで働く日が決まったのはそれからひと月も満たない期間だった。
環世は、自分でもあっけなく慣れたところも人も捨てられるものだと思った。それは、元々自分にも人生にも期待できなかったことが長かったからかもしれない。その時、芽生えていたものが愛情や愛着というものであったことは、その時には気が付かなかったのだろう。
公子との暮らしの中、時折、環世自身でさえ自分の本当の素顔を探しているような心持ちになるときがあった。純白を演じ続けられる自分と、あの時、一匹の蝶を踏み潰した自分。鏡に向かって顔を見てみても、どちらの顔にも見えない。大抵そこには、のっぺらぼうな女が一人見えるだけだった。
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