其三
夢を見ていた。
その時、環世は一匹の蝶であった。
気づいた時には、蜘蛛の糸に絡められていた。八方に伸びる蜘蛛の巣に果てはなかった。どこまでもどこまでも暗闇が広がり、空には大きな青い月がぷかりと浮かんでいるらしかった。浮かんでいるらしかったというのは、蜘蛛の糸に絡まった身体では上手く空を見上げられず、自身の下に広がる黒い海にその光が反射し、それとわかるだけだったからだ。
もがけばもがくほど、糸は絡まった。あまりにももがいたので、とうとう羽が1枚、水面に落ちてしまった。
「ああ」と声をあげても、落ちた羽はゆっくりと海の深くにゆらゆらと沈んでいった。残った羽についた鱗粉は、羽ばたくほどに剥がれた。月の光でそのひと粒ひと粒が恍惚としたフィラメントとなったが、肝心の羽には元の模様はもう見えない。
そして、下からは巨大な一匹の蜘蛛が鈍い動きでモゾモゾと這い上がってきた。その醜い塊は、環世の身体を下から上へ舐め回すように見ると、毒液の滴る牙を容赦なく突き立てた。なす術もなく彼女の腹は引き裂かれた。五臓六腑があらわになり、その体液をすする牙のドクドクとしたやらしい音がむなしく響いた。
もはや、動かなくなる四肢でも、肉が引き裂かれる痛みでもなかった。霞む視界に見える水面の月だけが、彼女の人生のすべてだった。
目覚めると、しばらくは動けなかった。金縛りの後のような大きな乾いた息を何度も繰り返した。汗で身体はドロドロで、布団もそれを吸って湿っていた。そのあと、なんとか身を起こし、環世はよろよろと便所へ向かった。便器を抱え込むようにかがみ、次の瞬間、込み上げるものを抑えることもできず、胃の内容物を全て吐き出した。
沸かしておいたやかんの水で何度も口をすすぎ、そこに置いてあった手ぬぐいで口を拭いた。公子に部屋を出る時にもらった着物の帯を緩め、ばたりと力なく畳に座り込んだ。海の見える部屋の窓を眺めながら、公子との生活を思った。
そう、この部屋はもう、公子の部屋ではなかった。あれから、すでに5年ほどの月日が経っていた。
あの時、公子は「いつまでもいてくれていいのよ」と言ったが、結局、環世は2年もしないうちに部屋を出ることとなった。
滞在中、公子は環世に大変尽くした。生活は貧しかったので、多くは与えられなかったが、彼女のできる限りを環世に与えた。後半では、彼女とは年の離れた姉妹のような間柄になっていた。ある時、公子は自分の客のつてを利用して環世に簡単な給仕の仕事を紹介したし、洋服も彼女のお古を遠慮なく着せ、最低限だが、環世の生活が困るようなことはさせなかった。
環世がただの家出娘ではないことも薄々感じてはいたが、深く聞くことはしなかった。何よりも、唯一の友人を亡くし、彼女自身も長く孤独だったのだ。公子には環世との暮らしは、その寂しさを紛らわせるのに充分だった。環世が家賃を払おうとした際には、公子は受け取らず、わずかばかりの食費だけ折半する形で、後のお金は自由にさせた。
環世はそのおかげで好きな本も少しずつ買うことができたし、わずかばかりだが貯蓄もできた。なんとなく、人並みに暮らすということを覚え、公子といる時だけは、時々幼子のような受け答えさえしていた。
しかし、時折見えないところで鏡に向かって泣いている公子の姿や、アパートの大家に親戚だと嘘をついて匿うように生活していること、それでも環世に態度を変えない彼女の優しさが重なり、かえって居心地の悪さを感じるようにもなった。本当は、2人ともこの暮らしが永遠には続けられないことに気づき始めていた。そして、何より、環世は他人の純粋な愛情を受け取るには、愛情というものに対してとことん無知であったのかもしれない。
環世はこの暮らしがほとんど好きになっていた。しかし、続かない理想に見切りをつけ、現実を見ることは彼女にとってもう一つの特技だった。再び心の緞帳を下ろし、しばらく表情をなくせばいいだけだったから。
そして、ある時、この生活を終わらせる決定的な事件が起こった。
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