其二

バスを降りた環世は、まず交番を探すことにした。

​街から離れたところだったので、それが交番か駐在所だったのかは不明だが、小さくはあるが商店街はあったので、人の流れの中でそれを探すのは幾分楽だった。開放された扉から室内に入ると、木製の机の上には、何やら資料や地図帳らしきものが乱雑に置いてあった。

​「すみません、ちょっと聞きたいのですが」

​そう声をかけると、「どうしましたか」と、中からそこの警官と思われる男がすぐに出てきてくれた。

​警官は最初、成人していない環世を見て、しばらくいぶかしんだが、彼女のハキハキとした受け答えに淀みがないことを感じると、素直に公子の住んでいるアパートを教えてくれたのだった。

​彼女は、こんなときどうすれば怪しまれずに欲しい情報が手に入るかを理解していた。いかにも家出娘であることがわかれば、公子の居場所を教えるどころか、警官は父の住まう家に突き返してしまうだろう。元の自分と違う自分を使い分けなければならない。どうやら、彼女には演じるという才能があったようで、自然に上がったように見える口角と言葉づかい、年の頃よりもしっかりと見える仕草、痣の消えた白い肌。警官はどこぞのお嬢さんだと勘違いしてくれたみたいだった。

​それは、救いのない彼女を取り巻く父と学校、狭い世間の中で、唯一の救いだった物語や本の数々が教えてくれたことだったのかもしれない。彼女の心の内側に黒くへばり付いた染みを、純白の演技がどうらんとなって覆い隠してくれた。それはおおよそ、同年代の女子にはできない芸当だった。

​環世は警官に深くお辞儀すると、書いてよこしてくれた地図と住所をたよりに歩き出した。同時に背を向けると、心の緞帳を下ろし、元の能面に戻るのだった。

​どうやら、公子のアパートは川沿いにあるらしく、交番からでもわかりやすかった。途中、短い橋を越えて川沿いを歩いた。川といっても汚いどぶ川で、生活排水が流れているのは明白だった。

​「髙木荘201号室、山城」それが公子の住まうアパートの所在だった。鉄でできた階段、どぶ川の鼻につく匂い、白いペンキのはがれた茶色い壁。それだけで、公子が豊かに暮らしているわけではないことがわかった。

​2階に上がり、玄関の戸を叩いた。返事はなかった。朝早く家出をし、まだ夕方前だったので、仕事にでも出ているのだろうか。環世は仕方なく、階段の前で彼女が帰るまで待つことにしようと思った。何より他にあてはなかったのだ。このあてが外れれば、野良猫になるより仕方がなかったのだから。

​もう一度だけ玄関を叩き、そこを離れようとした時、不意に玄関の扉が開いた。年の頃は30代後半だろうか、アパートの風体とは違い、細い面立ちではあったが、環世よりも肉付きはよく、ショートヘアの健康的な身体の女が出てきた。公子だった。年は重ねていたが、幼い頃、母の葬儀で見たその人と変わりなかったので、すぐにそうだとわかった。

​「どなたですか?」

​出てきた公子は最初、やはり知らない人に接する顔だった。環世は、怪しまれないように作り笑顔にしながら言った。

​「お久しぶりです。覚えてないと思いますが、東條の娘の環世です。母の葬儀で幼い頃、一度お会いしました。突然で失礼いたします」

​公子は「東條」という言葉を聞いて、すぐに表情を緩ませた。

​「まあ、環世ちゃんなの?こんなに大きくなって。どうしたの?とりあえずお入りなさいな」

​そう言って彼女の手を取り、部屋の中に招き入れた。突然の訪問を快く思ってくれたようで、ひとまず環世は安堵したのだった。

​部屋の中は簡素だった。化粧台にちゃぶ台が一つ、ラジオが衣装だんすの上に置かれ、後は目につくような特別なものはなかった。布団はたたまれて部屋の隅に置いてあり、公子の身なりを見ると、これからどこかに出かけるようでもあった。

​「コーヒーでいいかしら?」

​環世の返事を聞く前に、小さなやかんで、おそらく自分も飲んでいたと思われるコーヒーを粗末なティーカップに淹れて、ちゃぶ台に置いてくれた。

​ほとんど初めて飲むコーヒーだったが、苦かろうが甘かろうが、喉が渇いていたのもあって美味しく感じた。公子も招き入れたはいいが、幼い頃に一度会ったきりの少女と何を話していいかわからず、目の前に座り、飲みかけのぬるいコーヒーを口に運ぶのだった。

​少しの沈黙の後、最初に口を開いたのは公子だった。

​「遠かったでしょう?よくここがわかったわね。私を覚えていてくれたのね。嬉しいわ」

​公子のどこか能天気で人懐こい言葉は、葬儀の時に聞いた「困ったことがあったら」という彼女の人柄が嘘ではないように感じた。環世は、それでも、作った表情は崩さないように、できるだけ不幸な身の上や事情は話さず、年頃の娘の父親との折り合いの悪さによる家出であるように伝え、「よければ何日か、もしくは一晩だけでもここに置いてほしい」と言った。正直に心の内を話すことはあまり得策ではないと思ったからだ。

​ひと通りの話を聞いた公子は、しばらく思案はしたものの、彼女のお願いを無視するつもりは毛頭ないようだった。それは、当時、豊かでない家庭の子供が進学しないことは珍しいことでもなかったし、家出であることは別にして、亡くした友人のかわいそうな娘に何かしてやろうという優しさだったのかもしれない。

​公子はとりあえずこの後、仕事で出なければならないことと、夕食にと出前を取ってくれ、「明日は一日休みなので後のことは明日考えよう、今夜はゆっくり休みなさい」と言ってくれた。

​公子はその後、忘れていた真っ赤な口紅をその大きな唇に塗り、バスに間に合うようにと少し急いで出ていった。主張の強い赤が、能天気そうだった彼女の顔を、夜の闇に無理やりなじませたようだった。

​公子の布団の中で、少しだけ母の匂いがした気がした。

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