其一
今からもう、ずいぶん前に環世は父と暮らす家を出た。
まだ中学生の終わり頃だったから、それは家出だった。高校への進学など考えられるはずもなかったし、父の激しくなる要求にはもう耐えられそうにもなかった。
近くの誰かに助けを求めることもできたのかもしれないが、それはしなかった。
誰かの介入で解決するようなことでもないとわかっていたからだ。
母方の親戚にいくらか心当たりはあったが、父が探しに来るのは目に見えていたので、そちらへは頼ろうとも思わなかった。それに、親戚はどちらもその父娘を厄介者と避けている節さえあった。
彼女の母の葬儀の時でさえ、儀式的な作法だけ済ませると、皆はすぐに帰っていった。葬儀中、父親のせいで心労がたたって死んだのだとヒソヒソと話す声も聞こえたが、もしかしたら、それもあるかもしれないと思えたので、言い返す気にもなれなかった。
そして、卒業間近、彼女は半ば衝動的に、父親の財布からこっそりと中のお金を全て抜き取り、家を出た。
目的や当てなどあるはずもなかった。
元々、生きることに対する気力や自分への価値なんてものは、とうの昔に捨てられたものだったので、乞食をするか、果ては野垂れ死ぬかでもかまわなかったのだけれど、母の好きだと言っていた西の方にある海は、生きているうちに一度くらい訪れてみてもいいと思っていた。
とりあえず、西に向かうことに決め、電車の中、ふと、確か母に公子という友人が一人いたのを思い出した。たいそう、二人は仲が良かったようで、母の葬儀の時も、彼女だけは涙を流して悲しむ様子を見せていた。
公子は葬儀の最後に彼女の手を取り、「環世ちゃん、困ったことがあれば力になるわ」と言ってくれたのが印象的だった。
公子の家は、暮らした家とは大分離れたところにあり、一度母と遊びに行ったことがあった。記憶だけを頼りに行くのには抵抗があったが、元より当てのない家出だったし、今手元にあるお金でいけないこともない距離だと思えたので、そうするより他はないとも思えた。
父も公子の存在を知ってはいただろうが、まさかそこへ訪ねることは考えもしなかった。
何時間か電車に揺られ、二度ほど乗り換えをし、公子の住むと思われる最寄りの駅に降り、バスを探した。若草ヶ丘という名前のバス停で降りたのを覚えていた。そこまで行けば、近くの交番か何かで公子の家の所在を聞けば良いだろうと思ったので、とりあえず、環世は行けるところまで行くことにした。
電車の窓からは小さく海が見えてはいたが、駅から若草ヶ丘までのバスでは海は見えなかった。
駅の付近は海街というより、海へのアクセスもしやすい程度のところなのだろう。住んでいたところよりは随分と栄えていたので、夜には繁華街と言われるネオンの街になることは容易に想像ができた。繁華街の始まるアーケードは魔窟の入り口のように大きな口を開けていたが、今の環世には、父のいない世界ならどこをみてもマシに思えた。
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