まちぼうけ

うたたね

まちぼうけ

 もし、そこの方。

 もし。


 …そう、あなたでございます。ああよかった。わたくしの声、聞こえているのね。


 急にお呼びとめしてごめんなさい。さぞ驚かれたでしょう。


 いえね、ここのところずうっとわたくしの近くにおいでの方がいらっしゃるなと思ったの。あなたのお顔があんまりにもあの子に似ていてね、だからあの子のこと、何かご存知ないかしらってお訊きしたかったのです。


 あの子というのは、わたくしの弟のような子です。わたくしはあの子が生まれる前から長いことここにいますから、だいぶ年が離れていますけど。

 ほら、あなたの右肩の辺りの柱に傷がつけてあるでしょう。横線が何本か。「ミツトシ」と「ヒナコ」と削ってある名前の、ミツトシの方です。


 そう。歳の割に大柄な男の子だったんですよ。反対にヒナちゃん、ヒナコの方は小さくて可愛らしくってね。ほんの子どもの頃はミツトシがヒナコをおぶってあっちこっち走り回って遊んでいて、ずいぶん仲のいい兄妹だったんです。

 …なのにミツトシったら、出ていったきり帰ってこないの。


 ちょうど80年前の春先から。3月だったと思います。

 枯れかかった葉みたいな、あまり似合わない色の上下を着て、同じ色の小さな帽子をかぶって。くたびれた格好だったけれど、ゲートルだけは真新しいのをしっかり巻いていた。玄関の三和土でヒナコとお母さん、写真の中のお父さんに「行ってまいります」と挨拶して、それきり。

 わたくしには挨拶をしなかったけど、かぶっていた帽子を一度脱いで、ぐっと見上げてくれましてね。


 わたくし、かなりおばあさんだけど、頭はしっかりしているのですから。頭というか、わたくしの場合は屋根ですか。


 それで、何だったかしら。


 ああ、そうです。

 学校かそこらに行ったと思ったのに、いつまで経ってもあの子は帰ってこないのです。夜まで待っても、一日経っても、ひと月が過ぎても。

 あの恐ろしい飛行機がいつの間にか飛んでこなくなっても。

 ヒナコやお母さんの食べるご飯が少しずつ豪華になっても。

 髪の長いヒナコが花柄のワンピースを着るようになっても。

 美しくおめかししたヒナコがお嫁に行ってしまっても。

 腰の曲がったお母さんが眠るように息を引き取っても。

 朝が来て、夜になって、それを何度繰り返しても。

 あの子は帰ってこない。

 あの子がどこに行ったか、あなた、ご存知ありませんか。



 ○●〇



 飴色に黒光りする床から手を離して僕は俯いた。

 祖母の日菜子ヒナコから形見として譲り受けていた写真が一葉、じっと黙ってこちらを見上げている。


 祖母の兄、僕にとっては大伯父にあたる人、光俊ミツトシ


 終戦の年の春に南方へ招集されたきり、帰らぬ人となった彼。当然、僕は彼に会ったことはない。でも、祖母が言うには似ているらしい。

「背が大きくってねえ、かっこよくて、意志の強そうな目をしていて」

 私ずうっと覚えているのよ、と自慢げに話しながら、祖母は何度も僕の頭を撫でてくれた。


 そんな彼女も、もうこの世の人ではない。


「あの、ね、」

 本当の兄妹のようにふたりを大事にしてくれたこの家も、もうしばらくすると解体されてしまう。共働きの両親にも、まだガキの僕にも、この家を管理することはできそうもないからだ。

「ミツトシは、きっとヒナコを守るために死んでしまった」

 もちろんあなたのことも、と小さくつけ加える。

「そういう時代で、そうしなければならなくて、だから本当は、あなたのところに帰ってきたかったと思う。ただいまって言いたかったと思う」

 ―わたくしも、ただいま、聞きたかった。お帰りなさいって言う日を待っていた。80年ずうっと。

「もう、こんなこと起こさないから。あなたみたいに悲しい待ちぼうけをする誰かがいないように」

 さわ、と風が吹いた。誰かの笑い声のようだった。


 ―やっぱり似ている。意志の強そうな目をしていて。


 そんな声が聞こえた気がして、濡れ縁から軒先を見上げる。年季の入った家は何も言わず、僕を見下ろしてくれている。

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まちぼうけ うたたね @czmz

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