認証

まっちゃん

第1話 認証

「ピッ」

 乾いた音が鳴り、ゲートが開く。俺は面白くも刺激もない、いつもの仕事を終え、会社のゲートを出る。俺の首からぶら下がったネックストラップの先にはチップ入りのカード。持っている者だけが通れる仕組みだ。


 ブォォォォ…ー。


 車のエンジン音が耳を突き抜け、社内の照明とは違う光が目に刺さる。慌てて瞳を細める。

 やがて、いつもの街路が広がる。黒いアスファルト、植え込みの緑、灰色のコンクリートに囲まれた焦げ茶色の街路樹。指先大の昆虫の死骸が転がる。


 ズオォォォォ…ー。


 ここは地球から約30万キロ――月の重力と釣り合う場所、ラグランジュ点に浮かぶ宇宙ステーション。少し上向きに目を反らすと地面が湾曲し、道路が空に伸びている。先ほどの光は人工灯で、間もなくオレンジの夕焼けに代わり、人工の星が一つ、また一つと輝き出す。


 認証が、この世界のルールだ。虹彩認証、静脈認証、チップ認証。俺はチップを選んだ。めんどくさいからだ。人の好みは認証する側も折り込み済みのはずで、ゲートではきっと複数の方式が組み合わされているのだろう。


 人工灯がオレンジに変わった頃、公園を通りかかる。石畳の向こうに大きなケヤキが枝を広げ、オレンジの光が葉の隙間から細かくこぼれる。ベンチに座る老夫婦を横目に、俺は噴水へ視線を向ける。水面に映る雲はゆっくり形を変え、波紋の中を通り過ぎた。ふわりと立ち上る水滴が小さな虹を作る。


 砂利道を歩くと、靴底が小石を踏む軽い音に、遠くの子どもたちの笑い声が混ざる。花壇の向こうで、ピンクの帽子をかぶった女の子が小さな犬を連れている。


 公園を通りすぎると、路地の角に小さな屋台風の酒屋があった。提灯が風に揺れ、夕暮れ色と混ざって路面を柔らかく染める。木のカウンターには瓶ビールが数本、氷水の入った樽に冷やされ、香ばしい焼き鳥の煙が細く立ちのぼる。


 暖簾を半分くぐった店主が軽く会釈する。背広姿の男性たちがガラスを片手に空を見上げ、仕事と夜の間の狭間に漂っている。


 俺は歩みを緩め、温かな灯りに吸い寄せられるように立ち止まった。焼き鳥の香りが空腹を思い出させる。


 そうだな…少しひっかけて帰るか。


 じゅうじゅうと油とタレを垂らす固まりを齧った所で、隣の客の会話が耳に入った。


 「プロキシマ・ケンタウリbへの旅、40兆キロ、片道400年だってさ」


 一瞬、手が止まる。遠い星の話、けれど妙に現実感がある。俺の心の奥で、ざわりとした感覚が広がる。400年……?その宇宙船の中では何代も世代交代するはずだ。


「とんでもねぇ計画だなぁ」


 他人の声が遠く、だけど胸の奥にずしりと響く。ここは宇宙ステーションで、俺はこの中で生まれ育った。惰性で生きていく毎日。だが、公園の景色、夕暮れの光、焼き鳥の匂い、これらすべてが「計画の中に含まれている」としたら?


 首筋に寒気が走り、背筋がぞくりとした。公園で少女が連れていた犬の首輪と、自分のネックストラップが、ふと重なった。目の前の「日常」と、知らぬ間に組織の「計画」に巻き込まれていた自分。


 「もう、予備実験は始まっていたのか……俺は監視対象の一つなのか……」


 声にならない声が喉の奥で震え、思わず焼き鳥を口に押し込む。ビールで流し込んで、なんとか落ち着こうとする自分がいた。けれど、頭の片隅でずっと問いかけが続く──逃げられるのか、俺は……?


 俺は家へと走り出していた。

逃げ…

逃げ!

逃げ … られないのだ。


 「ピッ」

 力なく音が鳴り、家玄関のゲートが開く。


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(2025.08.15 了)

三題噺「組織」「刺激」「首輪」


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